比較研究の意義

「比較研究法そのものが捨てられたわけではない。その理由は簡単であり、この方法こそが、どのような形にせよ、用いることのできる唯一の方法であるからである」――エドワード・エヴァン・エヴァンズ=プリチャード
初期ハイデガーの「ケア(配慮)」の検討の導入部における、生=ビオスの概念の多義性に関する紹介の部分
「「生」という語とその用法とが暖昧多義で混乱をきたしているからといって、簡単にこの語を使うのをやめてしまえばよいということにはならない。この語に はとにかくさまざまな意味方向が備わっているのであり、それらを追跡してこそそういった各種の用法によって意味される対象性へと突き進みえようはずが、や めてしまえばその可能性も放棄してしまうことになる」(p.18)。「この術語(=「生」引用者)の多義性は、それが指している対象そのものに根差しているのであろう。語意が曖昧であるのは、哲学にとっては、その暖昧さを 取り除く機縁であるか、あるいはかりにその曖昧さが対象そのものに根差す必然的なものであるなら、その曖昧さを明確に体得された、見通しのきいた曖昧さへ と転換する機縁よりほかのものではありえない。多義性(【ギリシャ語】〔さまざまに語られること〕)に服するとは、単に個々の孤立した語意をつつきまわす ことではなく、その語が意味する対象性そのものを納得のいくものにし、さまざまの異なった語意が出てくる動機の源泉を見きわめようとする徹底的な態度の表 現にほかならない」(p.19)。
閑話休題
OEDを参照していただければわかりますが、英語のcare は11世紀のフランス地方の古語のcure に由来し、その語源はラテン語のc ū raにたどれます。オックスフォードラテン語辞典では、curaは、一般的な1.ケアの他に文中で指摘されている2.不安や心配あるいは関心という用法を二義的に紹介しています。本文中にあるcaru はラテン語のcura のうち2.不安や心配の意味を一義的に示す用例がアングロサクソンの古典的用法としてあったようです。従って「careという言葉には共感や共苦あるいは他者との出会いあるのだ」という主張は、ちょっと贔屓の引き倒しで、公平な語源的議論ではないものと推察されます。