文化批判者のアイロニー?それとも隔靴掻痒感?

「語感でものを考えるのに慣れている人は、「文化批判」(同巳宮長江民}むという言葉を聞くとむかむかするにちがいない。それは単にこの言葉が、「オートモピル」という言葉のようにラテン語語とギリシア語のごた混ぜだからというだけではない。この言葉が、ある明白な矛盾を思い出させるからである。文化批判者は文化が気にいらない。だが、彼が文化を不快に感じることができるのは、ひとえにその文化のお蔭なのである。彼は、掛値なしの自然であろうが、もっと高次の歴史的状態であろうが、そういう考えを自分が支持するかのように語るが、しかしその批判者自身は、自分のほうがそれより崇高だと思っている相手と同じ存在なのである。へーゲルは既存の体制を弁護するために、自分は偶然的で制約されたものでありながら、いま存在しているものの暴力を裁こうとする主観の欠陥を繰り返し叱った。しかしその主観そのものがその最内奥の連関にいたるまで独立した超然たる主観として、主観がそれに対置されているその当の概念によって媒介されているところでは、そういう主観の欠陥は我慢ならないものになる。とはいえ不適切な文化批判は、その内容からいって、批判/される対象への尊敬の欠如に終わるよりも、むしろ、ひそかにだが、その対象に目がくらんで恭しくそれを承認するという結果に終わる。文化批判者は、たとえ彼がそういう帰属を欠いた文化をもっていても、〔文化への〕帰属を避けることがほとんどできない。批判者の空虚な虚栄心は文化の空虚な虚栄心を助長する。慨嘆する身振りのうちに、彼は孤立無援、不偏不覚であるかのように、教条的に文化の理念を墨守する。そこで彼は攻撃を先に延ばす。絶望と度外れの苦しみがあるところに、もつばら人類の意識状態や規範の類落といった精神的なものが告知されているというのである。しかし批判はそれに固執することによって、その精神的なものが人聞に見放されていることを、いかに弱々しくであろうと望む代わりに、語り得ないもののことを忘れたいという誘惑に陥るのである」(アドルノ「文化批判と社会」の有名な冒頭の部分、翻訳は渡辺祐邦・三原弟平訳『プリズメン』Pp.9-10, 1996による)。