文法の話

僕はこの分野には全然明るくないですが……ちょっと考えてみました。
文法は古代ローマ時代に整備された修辞学に起源があるんじゃないでしょうか?(古代ギリシャの修辞学には文法規則のようなパラダイムがまだ生じていない)
ウィキ(英語)によると、蘊蓄的にいっぱいありますね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Grammar#History
ナショナリズムにも寄与する)国語文法としては15世紀末のネブリハによるカスティーリャ文法というのが、近代的文法の発祥だと言われています。上掲のグラマーの歴史の真ん中あたりにも書いてあります。引用しますと、
In 1486, Antonio de Nebrija published Las introduciones Latinas contrapuesto el romance al Latin, and the first Spanish grammar, Gramática de la lengua castellana, in 1492.
つまり、ラテン語の比較文法から、イベリア半島カスティーリャという地方語が、国語として国家統一の推進力となる考え方ですね。僕たちの文法の学習スタイルの起源になっているものですね。おまけに、この文法書の出版が、コロンブスの新大陸発見の年だというので、みんなこの出来事をエポックメイキングなこととしてよく取り上げます。(文法=人間をまとめて想像の共同体を形成する)
近代言語学のなかでは翻訳も出ているイェスペルセン『文法の原理』(原題:文法の哲学)岩波文庫、私は読んだことがありませんが、イエスペルセンは英語学の専門ですので、近代英文法の背景にあるものが知ることができるのではないかと思います。
グラマーの問題は、実は近代啓蒙精神を知る上で非常に重要な議論なのではないでしょうか?
チョムスキーは、文法の理論ということで(俺達の頭の中にある統語ルールとして)生成文法という概念を提出することで、おれたちが正しくコトバを文法通りに話せるのは、外側にある文法テキストを頭に叩きこまれたからではなく、生得的なメカニズムの可能性を提示して、(ビアジェ流の「発達」とは異質の)認知科学的言語習得理論をつくりあげましたし……
おまけに、デリダのグラマトロジーについて(『根源の彼方に』)は、グラマー(文法)というよりも書記に関するものですが、このような規則の確立は「正しく話す」ことを正当化する起源になることで、西洋の真理(=音声中心主義)を保証するのに一役買っているのだ、という議論になります(文法=正しさの根拠)
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最近よんだ本にアクセル・ホーネット『物象化』法政大学出版局。ま、ルカーチの(かなり牽強付会な)ヘーゲル的救済なんですが、ひょっとしたら「コミュニケーションの共同主観性」の文法(という物象化)の根拠なんて、議論ができるかもしれません。こちらは、VRさんの(かつての?)専門領域なので、やくに立つかも知れません。文章が生硬なのですが、そのほうがある意味で(物象化のポジティブな意味?で)読みやすいかもしれません。