土竜エリート教育養成講座

土竜エリート教育養成講座について》
 レイモンド・ウィリアムズの短い「コミュニティの意義」というエッセーを読んでいて感じたこと。ケンブリッジのエリートの卵の学生たちに、自分たちの出身とは異なる経済的下層階級や「田舎」に住んでいる人たちのコミュニティの概念を把握することの困難。そして、エリートによる国民国家に働きかける政治が、なぜコミュニティに政治言語をとおして介入すべきなのか。そのような介入の必要性について、その階級に安住しているかぎり決して理解不能だということなのだ。某、国立大学法人では、スーパーグローバルや超域イノベーションの掛け声のもとで年端もいかない青二才の青年青少女に、エリート教育を授けているが、連れていくのは(絵に描いたアジア・アフリカの)途上国である。自分たちの街の足下に広がる、ワープア同年代がたむろするネットカフェとか「認知症になりたくない」恐怖社会の蔓延のなかで社会的認識論的隔離を余儀なくされている認知症者の群れに飛び込もうとは誘わない。こういうチグハグな矛盾など何も感じず、フォロアーのエートスとはどのようなものかについて「認識論的感情移入」もできないモグラのようなエリートたち(Mole elites)のリーダーシップを陶冶するという阿呆陀羅教育を続けている。ちなみにウィリアムズのエッセーから示唆を得たことのなかには、ボトムアップではなくトップダウンの視点から「コミュニティを造る」という策謀には、どんなものでも(すでに有効期限の切れた)「ネーション・ビルティングを造る」というパラレルな現象があることを忘れてはならないこともあった。

存在感を取り戻すにはプライドではなく具体的行動だ!

《国際的存在感を取り戻すにはプライドではなく具体的行動だ!》
 国連のミレニアム開発目標の報告書をみると、世界的にみたときに貧困率や就学率等8つのアジェンダは顕著に改善されているが、いまだ改善されていないテーマが5項目ほどあげられている。つまり、1)男女の不平等、2)最貧困層と最富裕層の格差増大、3)気候変動と環境悪化、4)紛争事案と犠牲者の増加、5)世界の最貧困層に対するネグレクト、等である。安倍首相は、日本のプライドをとりもどすとおっしゃるが、国内的には男女の不平等では日本は開発途上国以下レベルの指標が多く、他の問題については国内では深刻ではないだろうがその解決にむけた国際貢献度においては、はっきりいって評価は低いままだ。もちろん、世界を外遊する岸田外相も、これらの問題に取り組む姿をみるに、存在感が薄すぎ、と思うのは俺だけだろうか??

馬鹿な質問の効用について

《馬鹿な質問の効用について〜♪ 》
 僕は、医学研究科修士課程の第二期生だが、途中でドロップアウトした旧帝大の著名な物理学教室の出身の同級生が神経生理学かなにかの授業のなかで質問した「鯨は海に棲んでいるのになぜ塩辛く感じないのか?」という質問が忘れられない。僕は動物生態学を修めた理学士だったから、そんな疑問を想像したことがなかった。なんという馬鹿なんだという見下した気分だった。しかし、40年ちかくたって、その教授がどのような当意即妙な返事をしたのかという記憶がない。つまりきちんと応接できなくて、たぶん授業を先に進んだのだろう。つまりこの教訓は、物理学履修の学生の質問の奇矯さではなく、それにうまく応えられなかった教授の頓智や学問的想像力のなさだろう。いま、前者ではなく後者の業務を日々こなすなかで、そんなオモロイ質問をする奴もいなくなった。それゆにこそ、教授もほうも頓智応接のOJTに長けていない。学生の(一見)馬鹿な質問は、想像力を駆使する教授の商売に必要不可欠なアイディアと刺激の源泉だったのだ。それが失われた現在、今日の教授の新たな使命は、馬鹿でもいいので質問をしまくる学生の育成と、頓智とユーモアに満ちた教員の創成であることは謂うまでもない。

『日本中小企業下請け階級の現状』

 TOYOTAって、日本を代表する企業だが、下請け、孫請けの会社の数が聞けばきくほどびっくりするほどある。その末端の経営者の方からお話を伺うと、納入価格は「信じられないほどの低価格」で、それも市況情勢次第で「突如、納品価格の切り下げ」が要求されることがあるという。当然、検品の末に再度納入ということも「一方的におこなわれる」ことがあるそうだ。それにより抵抗すると納品そのものがキャンセルされて「二度と受注されることがない」ために、その受注は最終的に赤字でも「必ず引き受ける」という。このような主従関係が固定的にあるので、孫請けは「下請けに絶対に文句が言えない」、下請けもTOYOTAの親会社に「絶対に文句が言えない」からだそうだ。そんな「嘘みたいな話」を聞くと、こんなニュースなどは、ただたんに朗報だとも言えず。もちろん現在の受注のサスペンドよりはましだが、もとの奴隷状態に逆戻りだとのことだ。つまり、受注がないのは地獄であれば幸い、だからといっても受注があっても生存ギリギリのラインに留め置かれる。オトロシという他はない。その意味で、TOYOTAもまたブラック企業の一翼を担っているのだ。エンゲルスではないけど『日本中小企業下請け階級の現状』という感じでしょうかね。

On power-thirsty animal and zoon politikon

《On power-thirsty animal and zoon politikon》
全体主義の起源」の第3部でいつもその箇所にくると面白い表現だなと感心するのが、power-thirsty animal という表現だ。あきらかに、アリストテレスの zoon politikon のなれの果てという皮肉を込めていっているのだが、この後者の前提がわからないと「権力に飢えた動物」をチャップリンなみの戯画化という皮相的な理解に陥ってしまう。チャップリンユダヤ人の床屋と独裁者を外面が似ているが中身が完全に異なる人間と獣のとりかえばやで話が大団円を迎えるが、アーレントは、テラーのシステムが全体主義をつくるのであり、獣(独裁者)が全体主義をつくるのではないと主張しているからだ。どうしてか?それは、人間は多かれ少なかれ、存在がzoon politikonであり、政治環境=システムがこそが「権力を渇望する」特異な動物を作り上げるだと見ているからである。

原爆ドームをプレイランドにして

原爆ドームをプレイランドにして〜♪ 》
津波被害地をサバゲーの遊び場にしたという咎でヒマな警察が動いたらしい。ただし)これは、聖地への冒涜だと裁こう(=真意は道徳的非難)としているが、それを憤る当時の校長が「防災教育の現場」という「価値のすり替え」をおこなおうとしているところが、茶番としか言いようがない。さすが(知性の薄い)教育者がおこなう、啓蒙の意味の取り違えの効果的な事例である。この人には、フランス革命時の「理性」という神学の意味を考えて――たぶん日本の教育学はそんな高尚で高レベルのことを教えないであろう、そのような幼稚な教育システムの被訓育者たちの1人――みたらどうかと提案してあげたい。泰西の哲学者かつて原爆ドームを前に言ったことをパラフレイズすれば、醜いがゆえに、この巨大ゴミ化した建築遺構を朽ち果てるままにすることを「保存」と呼ぶ馬鹿なことがおこるわけだ。愛する妹が下痢して痩せこけてホームのガード下で餓死した、野坂昭如原作アニメ作品の「ほたるの墓」の最終シーンを君は知っているか? ビルが林立する復興した神戸の40年後の姿だ。僕は敗戦後の神戸は知らないが、アニメの神戸のビル群は知っている。そのビル群は僕にとって神戸のこどもたちの明るくてきれいな巨大な墓標のように映ったのだった。それから20年ほどか、目茶苦茶になった震災後のセンター街や、ビルが横倒しになった街をあるいて、それらの墓石が再度壊れたり焼け朽ちているのを目の当たりにした。神戸の廃虚は行くたびも潰れては消え、また再生した。東北という日本の開発の犠牲になった大墓場地帯が本当に再生するためには、陸に上がった巨大貨物船をプレイランドにして、廃虚はこども幽霊屋敷にして、子供たちの防災のために立ち上がらなかった政府や大人どもを永遠に呪うレジャーランドにすれば、地元にも都会の金が流入し、景気もよくなるものを。ゾンビがゾンビを呪ってどうするのだ。お前らも死んでしまう。死んだ連中のことを思って残りの人生を半分以上楽しめないのなら、いっと綺麗に忘れてしまって、政府の助成金をたんまりふんだくって、楽しく人生を送ればよいではないか? 慰撫と謝罪は政府と馬鹿な生き残った大人の仕事だ。これから人生を謳歌するクソ餓鬼どもには、そのような労苦を負わせないように努力するのが、先に死んでいく連中の努めなのではないか?

親密圏研究のルーツと殺人研究

《親密圏研究のルーツと殺人研究
 1968年、リンドン・ジョンソンが「暴力の原因と阻止」の研究委員会を大統領名で組織した時に、社会学者ウィリアム・グードが親族・配偶者・愛人・親しい友人などをひっくるめて「親しい者たち(intimates)」と呼んだ。親密者への殺人比率は、見知らぬ他者を殺す比率よりも高いのだ――このことに関しては統計的な異論があるが。その理由は、彼らどうしが殺し合いをするための遭遇頻度が高いという常識の確認にすぎなかった。このことになかなか我々が気付かなかったのは、「親密な者どうしは殺害をしない」という誤ったバイアスに我々が呪縛されているからである。