土竜エリート教育養成講座

土竜エリート教育養成講座について》
 レイモンド・ウィリアムズの短い「コミュニティの意義」というエッセーを読んでいて感じたこと。ケンブリッジのエリートの卵の学生たちに、自分たちの出身とは異なる経済的下層階級や「田舎」に住んでいる人たちのコミュニティの概念を把握することの困難。そして、エリートによる国民国家に働きかける政治が、なぜコミュニティに政治言語をとおして介入すべきなのか。そのような介入の必要性について、その階級に安住しているかぎり決して理解不能だということなのだ。某、国立大学法人では、スーパーグローバルや超域イノベーションの掛け声のもとで年端もいかない青二才の青年青少女に、エリート教育を授けているが、連れていくのは(絵に描いたアジア・アフリカの)途上国である。自分たちの街の足下に広がる、ワープア同年代がたむろするネットカフェとか「認知症になりたくない」恐怖社会の蔓延のなかで社会的認識論的隔離を余儀なくされている認知症者の群れに飛び込もうとは誘わない。こういうチグハグな矛盾など何も感じず、フォロアーのエートスとはどのようなものかについて「認識論的感情移入」もできないモグラのようなエリートたち(Mole elites)のリーダーシップを陶冶するという阿呆陀羅教育を続けている。ちなみにウィリアムズのエッセーから示唆を得たことのなかには、ボトムアップではなくトップダウンの視点から「コミュニティを造る」という策謀には、どんなものでも(すでに有効期限の切れた)「ネーション・ビルティングを造る」というパラレルな現象があることを忘れてはならないこともあった。