On power-thirsty animal and zoon politikon

《On power-thirsty animal and zoon politikon》
全体主義の起源」の第3部でいつもその箇所にくると面白い表現だなと感心するのが、power-thirsty animal という表現だ。あきらかに、アリストテレスの zoon politikon のなれの果てという皮肉を込めていっているのだが、この後者の前提がわからないと「権力に飢えた動物」をチャップリンなみの戯画化という皮相的な理解に陥ってしまう。チャップリンユダヤ人の床屋と独裁者を外面が似ているが中身が完全に異なる人間と獣のとりかえばやで話が大団円を迎えるが、アーレントは、テラーのシステムが全体主義をつくるのであり、獣(独裁者)が全体主義をつくるのではないと主張しているからだ。どうしてか?それは、人間は多かれ少なかれ、存在がzoon politikonであり、政治環境=システムがこそが「権力を渇望する」特異な動物を作り上げるだと見ているからである。