原爆ドームをプレイランドにして

原爆ドームをプレイランドにして〜♪ 》
津波被害地をサバゲーの遊び場にしたという咎でヒマな警察が動いたらしい。ただし)これは、聖地への冒涜だと裁こう(=真意は道徳的非難)としているが、それを憤る当時の校長が「防災教育の現場」という「価値のすり替え」をおこなおうとしているところが、茶番としか言いようがない。さすが(知性の薄い)教育者がおこなう、啓蒙の意味の取り違えの効果的な事例である。この人には、フランス革命時の「理性」という神学の意味を考えて――たぶん日本の教育学はそんな高尚で高レベルのことを教えないであろう、そのような幼稚な教育システムの被訓育者たちの1人――みたらどうかと提案してあげたい。泰西の哲学者かつて原爆ドームを前に言ったことをパラフレイズすれば、醜いがゆえに、この巨大ゴミ化した建築遺構を朽ち果てるままにすることを「保存」と呼ぶ馬鹿なことがおこるわけだ。愛する妹が下痢して痩せこけてホームのガード下で餓死した、野坂昭如原作アニメ作品の「ほたるの墓」の最終シーンを君は知っているか? ビルが林立する復興した神戸の40年後の姿だ。僕は敗戦後の神戸は知らないが、アニメの神戸のビル群は知っている。そのビル群は僕にとって神戸のこどもたちの明るくてきれいな巨大な墓標のように映ったのだった。それから20年ほどか、目茶苦茶になった震災後のセンター街や、ビルが横倒しになった街をあるいて、それらの墓石が再度壊れたり焼け朽ちているのを目の当たりにした。神戸の廃虚は行くたびも潰れては消え、また再生した。東北という日本の開発の犠牲になった大墓場地帯が本当に再生するためには、陸に上がった巨大貨物船をプレイランドにして、廃虚はこども幽霊屋敷にして、子供たちの防災のために立ち上がらなかった政府や大人どもを永遠に呪うレジャーランドにすれば、地元にも都会の金が流入し、景気もよくなるものを。ゾンビがゾンビを呪ってどうするのだ。お前らも死んでしまう。死んだ連中のことを思って残りの人生を半分以上楽しめないのなら、いっと綺麗に忘れてしまって、政府の助成金をたんまりふんだくって、楽しく人生を送ればよいではないか? 慰撫と謝罪は政府と馬鹿な生き残った大人の仕事だ。これから人生を謳歌するクソ餓鬼どもには、そのような労苦を負わせないように努力するのが、先に死んでいく連中の努めなのではないか?