シャーマニズムと動物と

シャーマニズムと動物
エリアーデ覚書)
エリアーデ、ミルチア『シャーマニズム(上)』堀一郎訳、筑摩書房、2004年
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「オーストラリアと北米では、他所と同様に親近霊と守護霊とが動物の形をとるのが圧倒的である。それらはいわば、西アフリカの「叢林霊」や中米およびメキシコのナグアル(nagual)とパラレルなものである」(上:171)

「トゥングースのシャーマンは補助霊として蛇を持っているが、巫儀の間に爬虫類の運動をまねようとする。また補助霊としてつむじ風を持っているシヤーマンはつむじ風のように振る舞う。チュクチとエスキモーのシャーマンは狼に変身する。ラップ人のシャーマンは狼、熊、馴鹿[となかい]、魚になる。セマング族のハラが虎に変わることができるのは、サカイ族のハラクラクやケランタン族のボモールと同様である。」(上:171)


「動物の形で補助霊があらわれること、それと秘密の言語で対話すること、シャーマンがかかる動物霊に化身すること(仮面、身振り、舞踊、など)は、シャーマンが人間の状態を放棄する――換言すれば、「死ぬ」ことができる――ことを別の方法で示しているという点である。悠遠の昔から、ほとんどすべての動物は他界へ霊魂を伴い行く導き手として、または、死んだ人間の新しい形として考えられてきた。「祖先」であるにせよ、「イニシエーションの師匠」であるにせよ、この動物は他界と真実にして直接的な関連を象徴している。おびただしい数の世界中の伝説や神話で英雄は動物によって他界に運ばれて行く。新加入者を背中に乗せて叢林(地下界)に運んだり、顎にはさんだり呑み込んだりして「殺して復活させる」のは常に動物である。最後に古狩猟民の宗教の支配的特徴をなす人間と動物との間の神秘的連帯性を考慮しなければならない。これによって、ある種の人間は動物に変形し得、その言語を解し、その予知力と神秘力とにあずかることができる。シャーマンはいつでも動物の生活様式にあずかることができ、ある意味で人間界と動物界との離婚がまだ起こらなかった、かの神話時代に存在した状況を再現するのである」(上:172)

「守護霊はシャーマンをして変身を可能ならしめるのみならず、シャーマンの「写し」でもあり、第二の自我(alter ego)でもあるわけだ。この第二の自我はシャーマンの「霊魂たち」の一つであり、「動物の形をした霊魂」――もっと正確には「生命霊」なのである。シャーマンたちは互いに動物の形で対決し、もしその第二の自我が戦いで敗れると、シャーマンもやがて死んでしまう。」(上:173)

「未来のシャーマンはそのイニシエーションの過程で、巫儀の間に精霊たちや動物霊たちと交通するための秘密言語を習得しなければならない。彼はこの秘密言語をその師匠からか、もしくは自分自身の努力――つまり精霊たちから直接に――よって習得する。……して用いられ到。どのシャーマンもそれぞれ自分に固有の歌を持っていて、それを精霊に懇祷する際に詠唱する。秘密言語が直接問題にならぬ所でさえ、その痕跡は、例えばアルタイ語族におけるように、巫儀の間に繰り返される理解し難いリフレインの文句のなかに見出される」(上:174)

「この秘密言語が実際に「動物言語」か、動物の啼き声に由来することが非常に多い。南米では、新米のシャーマンはそのイニシエーションで動物たちの声をまねることを習得しなければならない。……カスタニェはキルギスタタールのバクサがテントのまわりを走りまわり、跳ね、唸り、飛ぶ行事を記録している。バクサは「犬のように吠え、参会者の臭いを嗅ぎ、牛のように吠え、羊のように唸り、叫び、メーメーと啼く。また、豚のようにブーブー言い、ヒヒンと言ったり、クークー言ったり、驚くべき正確さで動物の啼き声や、鳥のさえずりや、その飛ぶ様子を真似し、そのすべてが聴衆に深い感銘を与える」と。」(上:175)

「世界中どこででも、動物、とくに鳥の言葉を習得をすることは自然の秘密を知り、予言をすることができるのと同価値である。鳥の言葉は通常、蛇や呪的動物と見做されている動物を食べることによって習得される。こうした動物は未来の秘密を啓示する。これらは死者の魂の容器、または神々の顕現と考えられているからである。だからその言葉を習い、その声をまねすることは、あの世や天上界と交通し得る能力に等しい。シャーマンの衣裳とその呪的飛翔とについて論ずるとき、この動物とくに鳥との同一視の問題に戻ってくるであろう。鳥は魂をあの世に導いてゆくものである。鳥そのものになること、鳥に伴われるということは、生きているままで天界やあの世へのエクスタシーの旅を企てる能力を示すものなのである」(上:176-177)

「多くの伝承において、動物との親交や動物の言葉を理解する例のあることは、楽園的徴候を示している。初めのとき、すなわち神話時代には、人々は動物と平和に暮らし、動物の言葉を解した。聖書の伝承の「人間の堕落」に比すべき原初的破局のときまでは――人間がこんにちそうであるように、死ぬべきものとなり、性を持つものとなり、自らを養うべく働かねばならなくなり、動物と敵対関係に入るまでは――、そうではなかったのである。」(上:177)

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エヴェンキの狩猟動物に対する取り扱い方=道徳

"A clear expression of a similar, purely animistic approach to nature was the hunting rite whose vestiges still make themselves felt in practically all areas populated by Evenki and Evens.

The hunting cult of the Tungus was based on the following premise: to kill animals, birds, fish, and to destroy trees in order to obtain food, clothing, fire, etc., is not contrary to nature and does not hurt it. What is contrary to nature and hurts it is the useless, senseless waste of natural resources, and that is what was regarded as a wrong-doing for which man should be punished.

The Tungus considered it amoral to kill for the sake of killing, to acquire unneeded things, to torture animals. Many legends tell of the extinction of whole clans because a clansman tortured a deer or a dog or any other animal. That is how, among others, the destruction of the Mayat-Tungus.

Reverence for the game was expressed in precise regulations concerning the treatment of the bag taken by the hunter. Returning with the booty, the hunter announced his arrival by knocking and coughing, not by talking. The fox and the sable he carried into the house blindfolded. When bringing in a musk deer, the men pretended that it was so big that even several people could hardly pull it through the narrow entrance. Meanwhile they were not allowed to make noise".

(Tugolukov 1978:420)

Tugolukov, V. A., 1978. Some Aspects of the Beliefs of the Tingus (Evenki and Evens)., In "Shamanism in Sibria." Dioszegi, V. and M. Hoppal eds., Budapest: Akademiai Kiado.