phytokenstein Japanese version 1.0

「植物が光合成に必要な二酸化炭素(CO2)を取り込む気孔の数を増やす植物ホルモンを、京都大の西村いくこ教授(植物分子細胞生物学)、嶋田知生講師、大学院生の菅野茂夫さんたちのグループが初めて見つけた。地球温暖化の原因となるCO2を多く取り込む森林づくりや作物増産に役立つ可能性があるといい、英科学誌「ネイチャー」で10日に発表した。/西村教授たちはシロイヌナズナを使い、気孔の形成時に働いている遺伝子を網羅的に解析した。遺伝子の一つが作る小さなタンパク質に気孔(ストーマ)を増やす働きがあることを確認し、「ストマジェン」と名付けた。/シロイヌナズナの種子をストマジェンの溶液に浸しておくと、発芽した葉の気孔が最大4倍にまで増えた。ストマジェン遺伝子を導入しても同様の効果があった。/ストマジェンは葉の表面からも取り込まれる。葉にスプレーで散布して気孔を増やし、CO2を取り込む能力を高めることができれば、既存の森林によるCO2吸収量を増やすことも可能になるという。また、作物の収量を上げる技術の一つとしても注目される。/ただ、実用化に向けては、生態系への影響のほか、水や肥料の使用増による土壌への影響など課題もある」(headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091210-00000003-kyt-l26)。

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「興味深かったのは、「野生動物を守ろうというconservationも、野生動物と人間との利用をTEKとして理解しようとする視点も、Western conceptsに基づいている。だから、localの人びとのconceptsを考えていく必要があるのではないか」と指摘していたことでした」。

腹蔵なく話しますと、これが私が前から言っている(言ってないか?)我々非西洋人の倒錯的=存在論的言説(Our-Non-Western Perversive Ontological Discourse, 最後の3文字をとってPOD)ではないかと思うのです。
ギアツローカルノレッジの日本での受容と同じパターン(→リンク)。
つまり、こういう都合のよい時には「我々非西洋人は……」といって自分たちの視点を西洋のとる人間よりも優位に位置づけ、フィールドワークでは白人のごとく西洋から有り難くいただいてきた機械や理論装置によって「西洋人の認識論」を論文などで展開してしまうのです。
もちろん、学会発表したら、俺たちはイエロー・モンキー、有色人の割にはよくがんばっているし、GNPも高いので名誉白人にしてやろうと白人におだてられて、英語で論文を書くわけよ。
ローカルノレッジ「localの人びとのconceptsを考え」る……ははん……結構なことだが、ここでローカルな思考の様式を、誰が誰のものをどのようにして、またどのような論理的手続きによって「正当化」(=科学ならびに疑似科学の世界では「論証・実証」というらしい)するかということだ。
おまけに、先の引用文ではローカルな人々は、西洋人と同様、見事に一般化されちょる。これって西洋の傲慢なエゴセントリックな思考なんじゃないの?
俺は、こういうのが本当に馬鹿だと思うのは、自分の言説や視点が社会の中から飛び出して論理的中立地帯――アルキメデスのポイント――にあるんだな。俺にいわせればそんな空虚な地点などないといいたい。あるいはうぬぼれ、あるいはアリストテレス以前への退行。
このような陥穽にはまることの問題点はフーコーやサイードが口を酸っぱくして言ってきたことやんか? そういえば、サイードにはヴィーコの研究があり、このあいだの春日大社先生の講演につながるねぇ。
認識論から存在論へというスローガンもまた、AをBにしたらハッピーになる、AをBにすることが「来るべき人類学」を招来することになるという単純なもんじゃない。
ラトゥール的自己反省によると(ラトゥールがそれほど鋭いとも未だに信じられないのだが)認識論と存在論のハイブリッド=怪物として西洋近代科学のなかの(現象学風に言えばコップのなかの)さざなみかもしれない。化け物は、化け物として、自分の存在の秘密(ハイデガー)を明らかにしたい、それと同じ、思考の権利を先住民=非白人=日本人にも付与してあげましょうということなのではないかとおもう。その意味ではTEKは人類学的用語というよりも開発言語あるいは法的言語であると思う。ギアツのローカルノレッジのレクチャーがエール大かどこかのロースクールでおこなわれたことを思い起こすが、TEKを人類学がもたらす知恵・技術・言説・権原(エンタイトルメント)と思うから、上の引用文のような倒錯(および盗作)が起こるのだ。TEKをめぐる言語の政治性についての議論と、人類学的知識(Anthropological Knowledge だからAKか、AK-25みたいでカッコイイ?/おぞましい?)に関する議論を、(交錯させずに)平行しておこなうこと、冥界のギアツだったらそう考えろと助言するかもしれない。
私はビベイロデカストロ存在論がいまだにわからない。にもかかわらずゴドリエ老のVdC=幻想論も俄には信じがたい。彼(VdC)のドゥルーズ論は(まだ十分に理解できたとは言えないが)面白いぞっ! おまけに、ブラジル人の研究者として彼の位置もまた、我々日本人=人類学研究者と同様、西洋/非西洋というアホな二元論で片付けられるわけではなかろう。