どうか虐殺者になりませんようにと自分に哀願する

《どうか虐殺者になりませんようにと自分に哀願する》
 世界が幸せになりますようにと、障害者は抹殺すればいいという2つの言説の共存は、ヒトラーの伝記映画 Der Untergang で、独裁者が「私に対するいろいろな批判はあるだろうが、ユダヤ人問題の解決は(私に?ドイツ国民に?)よかった」と側近に呟くことと、僕の心の中では共鳴してしまう。殺戮容疑者の男は、自分がそのような人道主義のプラットフォームから落ちて大罪の地獄に堕ちたことを自覚しなかったか?でも僕たちもネットの書き込みにそのようなことをしばしば眼にするわけだから、そのような奈落は、容疑者のみならず、我々の足下にもパックリと開いていることになる。

論文情報

Journal of the Royal Anthropological Institute(N.S)22:1-19, 2016. に下記のような論文が掲載されました。

Hannah Brown, Durham University, Managerial relations in Kenyan health care: empathy and the limits of governmentality.

This article describes relationships between a team of mid-level government health managers working in a rural Kenyan district and those whom they managed: health workers based at rural health facilities. In this context, managerial expertise was heavily informed by personal biography and a moral obligation to empathize with the difficult working conditions and familial responsibilities of junior staff. Management should be studied seriously in anthropology, as a powerful social and bureaucratic form. This focus must extend beyond a concern with tactics and technologies of governance to consider how modalities of managerial expertise are also shaped by biography, intersubjectivity, and professional identity.

フーコーの統治性や、ニコラス・ローズの「生の政治学」的な議論です。
別にケニアでなくても、僕が経験した30年まえの中米ホンジュラスでも、ヘルスワーカーは「人生は戦い」とか「家族を養うために戦っている」、「上司とうまくやるには……」「地域住民はこう考えるから……」と言っていたことを思い出しました。当時、医療人類学のことを都市の保健省のオフィスで聞いたことのある医師や管理職の連中は、同じような感情と自分の行動のコントロールをしているのだという感じで目新しいとは思えないのですが、それが人類学の研究対象になっていることが、驚きです。僕の『実践の医療人類学』V部、14章・15章、附録あたりが(ブラウンさんよりも原始的ですが)そのことを議論していました。
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/jissen00256.html
こういう研究テーマがトレンドなんだなという驚きと、日本の大学と共同研究してケニアの村落で高齢者ケアにとりくむ人たちにも、同じようなことが去来しているのではないかと、感慨を深くした次第です。

デモクラシーの不完全性定理

デモクラシーの不完全性定理――
「有限的な政治論をある分量だけ含むような任意の無矛盾なデモクラシー系において、決定不可能な政治算術の命題が存在し、さらに、そのようなシステムの無矛盾性は、そのシステム内では証明できない、という事実を、厳密に証明できるのである」Q.E.D

ヘーゲル様が女装して網タイツでやってくる

ヘーゲル様が女装して網タイツでやってくる?!》
 ジジェクによると、全体主義のトラウマ(あるいはヒステリー)は、その最悪のピークの時には治癒過程がはじまっているという。それはよかろう、首肯してもよい。ただし、そのピークから終焉までのあいだに自分が粛正の犠牲になるのは、ましては最後の犠牲者になるのは御免だ。歴史の主体にならなくてもいいという気持ちは、誰しもそんなところにあるだろう。

民主主義というネクロフィリアについて

《民主主義というネクロフィリアについて》
 みんなで民主政という集合表象(幻想)に関わっているのに別の集合表象(神)と取り違えているからですね。民主主義というネクロフィリア=屍体崇拝について。――【本文よりも長い脚注】なお、ネクロフィリアは精神のねじまがった精神医学者には屍体姦という用語に限定されて使われ、馬鹿な専門家に独占されてしまったが、いわゆる「未開」社会では、屍体をあたかも生きているがごとく慈しみそれらに崇敬するのみならず、生きている人と「等価」に扱うことが重要なのです。ネクロフィリアは人類にとって「当たり前の現象」です。だから民主主義がネクロフィリアと言われても怒るのは、馬鹿と精神医学者だけです。専門家の頭の中が知性の不道徳な姦通によって犯されていたのですね。

聖ヨハネの恐慌論の鐘

《聖ヨハネの恐慌論》
 もちろん、財政破綻は、経済マーケットメカニズムのショック療法、つまづきの石(=神の意思)とも言えますね。ただし、それがぢつわマルクス主義の恐慌論の変奏だとすれば、それは政治神学ならぬ経済神学たる千年王国論とおなじかもしません――聖トマスの経済学ならぬ聖ヨハネの恐慌論の鐘がなる〜♪

英国のEU圏内維持の必要性の主張(FT)

■フィナンシャル・タイムによる、英国のEU圏内維持の必要性の主張
 英訳は日経新聞による…………
「 「現代の世界において、象徴としての主権とその本質を区別することには大きな意味がある。本質的な主権とは独立して行動する自由があることであり、現在どの単一国家でもそれが可能になることはめったにない」。サッチャー元首相が率いていた保守党は1975年に欧州共同体(EC)残留を巡る国民投票で英国民に残留への投票を促した際、こう忠告した。40年以上たった今もなお、保守党のEU離脱派は象徴としての主権のために戦っている。

 離脱派のうたい文句「支配権を取り戻せ」は、英議会は力を行使する上でいかなる外部の組織や権力に手を縛られることはないと考えており、それは幻想だ。それがもし本当なら、現在の密接につながり合い、依存し合う世界を1975年当時よりも否定していることになる。

英の国民投票をテーマにした花束が現れた。英国旗をあしらった「ブレグジット・ブーケ」(左)とEU旗をあしらったもの=AP
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英の国民投票をテーマにした花束が現れた。英国旗をあしらった「ブレグジット・ブーケ」(左)とEU旗をあしらったもの=AP

 EUは国民国家に対する陰謀で、欧州の超大国の中で英国の自由を奪う試みだという欧州懐疑派の多くが同調する主張は、議論への小さな一歩だ。だが、事実は違うことを示している。EUに加盟してもドイツはまさにドイツであり、フランスはまさしくフランスで、英国はやはり英国だ。それよりも、国家の連合が20世紀前半の独裁や紛争から欧州の国民国家を救ったという方が説得力がある。

 本物の主権とは国の安全を高め、繁栄させる力だ。英国は何世紀もそれを共有してきた。英外務省の記録がある1834年以降、英国は戦争や平和、貿易から環境、人権に至るまであらゆる問題に関して1万3000以上の条約や国際協定を結んできた。そのおのおのがそれぞれの形で理論上では主権を少しずつ奪ってきた。だが、そのすべてではなくても、その大半は国益に貢献してきたのだ。

 EUの条約は、一部の分野では他の条約よりも国民生活により踏み込んでおり、それは単一市場のルール作りや人の移動の自由を認めることにおいてはなおさらだ。各国政府はこれらの領域に関してEU司法裁判所を最終的な裁定機関と認め、貿易や環境に関してEUに権限を委ねている。ただし、英国は単一通貨と、移動の自由を認めるシェンゲン協定に参加していない。

 EUは時に国民生活の隅々にまであまりにも深く干渉したがるが、この主権の集合体が英議会の意思決定の権限を奪ったことはほとんどないと言ってよい。国家の安全保障や経済運営、税制、歳出、社会政策、健康、教育、計画などに関する選択をしているのは英国の政治家だ。

 離脱派は主権の抽象的なイメージに神経痛のようにとらわれており、英国の加盟から40年余りの実体験に困惑している。EUはサッチャー革命や、労働市場規制緩和、さらに2008年の金融危機以前の金融市場に対する監視緩和にも何ら関与していない。また、EUは国際外交を主導したわけでも、戦争参加の意思決定に関する何らかの発言権を持っていたわけでもない。

■好調な経済はEU加盟だから可能

 主権を共有することで何が得られるかは自明だ。EUに加盟したとき英国は「欧州の病人」だった。だが、今や英国経済は最も好調な部類に入る。その原動力は、競争が激化し、世界で最も価値のある単一市場に自由に参加でき、スキルの高い労働者がすぐに使える状態だったことだ。離脱派はその皮肉な事実を見落とし、今の比較的好調な経済を離脱の根拠として挙げている。

 EUの離脱で回復できるのは象徴としての主権のみだろう。グローバル化が進んだことで世界の依存関係は深まった。経済力が東や南へと移っているため、民主主義の欧州先進国は経済関係で条件を定めるのがより困難になっている。この状況下で恩恵を得られるのは競争と変化に対してオープンな国だ。

 さらに、国家連合は英国が利益と価値を高める土台の役目を果たす。また、大ざっぱに言えば、国家連合により、欧米に支配されなくなった世界での影響力がさらに増す。離脱を選べば、英国の影響力を増大させる力としての役割を失い、国家としての権力は弱まるだろう。

 英議会は委譲したものを取り返すことはできる。英国が結んだEU加盟を含む国際協定は議会の承認事項であり続ける。英国がEU残留か否かを議論し、6月23日に離脱を選択することも可能である事実こそ、決断しかねている人々にこの国の主権がなんら損なわれていないことを示すのに十分だ。

(2016年6月13日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)

(c) The Financial Times Limited 2016. All Rights Reserved. The Nikkei Inc. is solely responsible for providing this translated content and The Financial Times Limited does not accept any liability for the accuracy or quality of the translation.」
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO03525480T10C16A6000000/