「可哀想な母子家庭」表現等は抑圧すべきか?

《「可哀想な母子家庭」表現等は抑圧すべきか?》
 昨日の朝のテレビで解説者の張本勲が「豪栄道の優勝褒めてやってくださいよ〜♪ 彼のうちは母子家庭なんだから!お母さんが一番よろこんではる!」旨と馬鹿デカイ声でコメントした。さすがに出演者はヤバイと思ったのだが、完全にスルーして、その後の不適切発言もなかったが、わが家の同居人は《片親よりマシやろ》と僕の「あかん」という反応には逆に取りあわなかった。僕は《いやシングルマザーと言い換えるべき》と反論したが、よく考えるとこの言い換え、大手のメディア会社の得意とする《言葉狩り》だと思い、ちょっと反省した。ちなみに現在の結婚制度では《マルティプル・マザーズ》という用語は存在しないし――産み/育てはあるのだが。母子家庭が不幸なのは、その存在ではなく、経済格差の原因になるという認識が社会(制度)に希薄で、シングルマザー家庭に手厚く平等に格差是正がなされないことが問題だと自分で反省した次第。張本の発言はそのことについて気付かせてくれた。よく考えると、僕が現在、この瞬間やっていることは、家庭内の対話における制度的民族誌(Institutional Ethnography)――ドロシー・スミスの造語――なんだ。そして、彼女の『実践としての制度的民族誌』という論文集をみていたら、フェミニスト社会学者らしい極めてフォーマリスティックな制度的民族誌の実践が、その現場と現場の認識を変えていこうとする姿勢をもたせる、あるいはそのような実践を生起するようなアプローチをよく表現している下記のようなスキームに出会った。在日朝鮮人出身の張本勲フェミニスト社会学者ドロシー・スミスは、僕がもつ《人称のカテゴリカルな差別意識》を脱構築してくれたわけです。感謝っ!