セレブ大学者の煩悶について

《セレブ大学者の煩悶について》
 野依良治日経新聞に2011年に連載した私の履歴書が書籍になっている。このような超エリートのセレブ大先生の著作をたまさか読む必要があって半時間ほどザッピングした。野依が、小保方問題に辟易したのは、問題のレベルが低過ぎるということは、すでにわかっていたが、それ以上に彼が安倍総理から2006年に教育再生会議座長に就任したことにある。つまり、彼はその日から、日本の教育レベルの荒廃――とりわけ理工系大学院教育のレベルの衰退――に気づかされることになる。このヒポコンデリーが内閣や政府文科省を経由して旧帝大を中心にオケツをたたかれてもう10年になるが、この期間の半分を折り返した時点で、野依は日経新聞に危機を嘆き、それなりに自分の改善案を提示する。しかし、御存知のように旧帝大はそれまでの予算獲得の既得権益と「口先だけの改革」で、ある意味で、当時の教育再生会議座長の心痛などどこ吹く風であったのだ。その折りの留めをさす、自分が理事長をやっている時代の小保方捏造問題の発覚。野依が記者会見で機嫌がわるいのは――もともど無愛想な表情の人だが――ある意味で当然だったのだろう。たぶん、彼はまったくいわれのない中傷や、あるいは貧乏くじを引いた気分だったのだろう。だが、成功者と失敗者が露骨に分かれ、そして成功者がかならずしも科学界におけるメリトクラシーの反映でないようにシステムが「鈍化」していたとしたら、それは野依らの超セレブな研究者たちのこれまでの科学技術政策へのコミットのなさという「自己責任」でもあるのだ。それは権力の外野で警鐘を鳴らしてきた池内紀らのリベラル派の科学者の責には負わされない、ノーブレス・オブリージュだったのだ。http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB05591186