書物と書物読解がもつポリフォニー性について

【書物と書物読解がもつポリフォニー性について】
 菅原和孝先生の近著によると、ドゥールズ=ガタリの2名の御仁の議論(特に「千のプラトー」)の議論のやり方は、反コミュニケーションだという。どうも奇矯な論法を使うが、そこで使われる術語は、厳密な定義が周到になされているからという(「狩り/狩られる…現象学」pp.457-8)。そして、実際に、当該訳書から、概念の創造が重要で対話など余計という文言をその根拠にあげる(河出の分厚い訳書=p.43)。先生は創造逞しく、コミュニケーションの手前に現前するから、彼らの議論は巨大な身体だという。でもこれは先生の妄想の行き過ぎだろう。身体は身体でも、僕に言わせればこの書物は言説のコルプスだ。バフチーンを召喚するまでもなく、あのとてつもなくスキゾ的な主張の束に、仮想の身体のように隙間のない矛盾はないのか?そもそも、ドゥールズ=ガタリという2人の人称はこの著作のなかで、先生の好きな言葉を使うと「癒合」しているが、それこそが、分裂し、叫び声をあげるから思索を可能にするのだ。著述体のオートーミーを主張しても、それを股を広げるように、なめ回すように、読み解くのは読者の暴力的な読解によるものだろう。身体に開口部があるように、そこから排泄されたり、外部から寄生虫はあざとく小さな穴から僕たちの「身体」に貫入する。バフチンが、著者は物語内の発話者をコントロールしているようだが、著述は、物語が完成してから著述の中で勝手に語り出すために、コントロールなど不能だという(書物がもつポリフォニー性、ないしはモノフォニーの困難性)。すばらしい万巻の書物の読み手である/また作家でもあられる先生が、ドゥールズ=ガタリの幼稚な書いたままの主張にコロッと参るのは、僕はいささか腑に落ちない。極論すれば、本など(とりわけ哲学書と呼ばれる特殊な言説体)は、どのように読まれてもよいし、それがシャーマニズムマルクス主義でいうところの交信=交通の基本原則だろう。レトリックによる構成のやり方が、ちょっとまずいんじゃないか?