子供たちへの童話:カポの苦しみ

【子供たちへの童話:カポの苦しみ】
 カポ(=ユダヤ労務者)による「さあ、シャワーを浴びて清潔になれ!」という掛け声にせかされて、多くのユダヤ人同胞はガス室にせきたてられたのでした。カポたちにとって辛いことは、そのせきたてられたユダヤ人たちの死体の処理をドイツ兵の監視のもとでおこなわねばならないことでした。そして、カポたちは、自分たちの作業効率が悪くなったり、怪我や病気をして、この職務を上手にできなくなると、次には、死んでいった同胞と同じ運命が待ち受けていることでした。カポの苦しみは、他の連中よりもより多くの同胞を殺すことに加担することが生き延びる手段であり、強制収容所の外の生活のように、より上手に仕事をやり遂げることが、自分にとっての満足にならず、さらに(生き延びるという)苦痛にも苛まれるということなのでした。そして自分が死んでも、自分の後釜に入る同胞にも、自分と同じような苦痛が待っているいることでした。カポはもういなくなったのでしょうか?生き延びている僕たちもまた、カポのような生活を強いている制度というものはないでしょうか?僕たちの社会にも、自分の生存が他者の犠牲の上に立っているものは本当に(強制収容所と共に)なくなったのでしょうか?――僕たちはカポのこのような苦しみを、考えること/想像することを通して「感じる」ことができないでしょうか?カポの苦しみを「哲学する」ことはできないでしょうか?カポの苦しみを考えぬくことが、カポのような制度を再度作り出すことを防ぐことに繋がるわけではありません。でも、それについて考えることを怠れば、知らない間にカポになってしまう危険性はあるでしょう。カポは同胞の殺戮に加担した悪い奴でしょうか?――そうではありません。カポはドイツ兵により、体力があり、命令を素直にきく連中から選ばれ、そしてその辛い仕事を強制されるのです。拒否をすれば殺される側になっちまいます。拒否をしなくても上手に仕事ができなければ、あるいはドイツ兵のきまぐれで、すぐに同胞と同じ運命が待っていました。カポの哲学を考え抜くということは、特殊なことでもなんでもなく「自由を剥奪されて労働を強制されることの意味」について根源的に考えることなのだと思います。
――あとがき――
「また、生きているかぎり、人間には、つねに希望が残っている、と確信していました。生きている間は、決して希望を捨ててはならないのです。このようにして、私たちは、あの苛酷な生活の中で、毎日毎日、毎週毎週、月を追い、年を追って、闘っていたのです。おそらくは、いつの日か、この地獄から逃げ出せるかもしれない。そういう希望を、心にはぐくみながら」――この言葉は元ユダヤ労務者(カポ)だったフィリップ・ミューラーさんの言葉です