勘当爺と屁下呂青年の対話

【勘当爺】
 わしや(ego)というのは、普遍的で超越論的なワシの一部やろ。というのは、なにも先に考えんでも(a priori)他の連中にもあるもんやさかいなぁ。そやから、本物らしさ、現実にあるやんかという感じちゅうのも、ワシがどう考えるかとは関係なしに、ワシから独立してあるんちゃうか? それを物自体(thing-in-itself)と言うんや〜♪
【屁下呂青年】
 あのなあ、考えていることと、考える奴の間は、同んなじもんやないやろ。でも考えたことは、考えてた奴の、その後の考えに影響を与えるやろ、そやから最初の考えと、後の考えが、同じということはないんや。だから何も考えんでもワシがあるという爺さんの考えも、あんさんの考えの産物やから、ワシがあることが、何も考えんでもある、ちゅうのは簡単な間違いや。爺の思い違いや。だから、現実にあるやんかという感じも、ワシから独立してあるわけないやん――そう思って現実にあるやんかと感じているわけやろ。爺さんなぁ、文章で主語省略しても、感じる奴の主語を消去できんやろ?受動態やあるまいし。ワシ(とオレ)は爺さんの思考の産物であるに決まっているやん。 そやから、あんたがケッタイな造語した「物自体」も、そんなもん、なにも考えんでも、あるという爺さんの考え方は、最初から終わりまで、間違ごうとるちゅうわけや。これで証明終わり(Quod Erat Demonstrandum)やで〜♪
参考文献
The Western intellectual tradition : from Leonardo to Hegel / J. Bronowski, Bruce Mazlish Harmondsworth, Middlesex : Penguin Books , 1963. - (Pelican books ; A631), p.538