宗教と公共性の「共存」について

キリスト教の共同体生活がただ同胞愛の/原理だけで支配されている限り、公的領域がこの生活から生まれてくるようには思えない」(アーレント 1994:80-81)。
 『人間の条件』(速水訳ーちくま版)のこの箇所の少し後に、今度は公的領域は永続性を樹立しなければならないという、(ちょっとこれとは違った角度からちょっと矛盾するような)ことを彼女は言います。それが〈キリスト教徒でありたいこと=永続性の希求〉と矛盾するようにも思えます。
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「公的領域を存続させ、それに伴って、世界を、人びとが結集し、互いに結びつく物の共同体に転形するためには、永続性がぜひとも必要である。世界の中に公的空闘を作ることができるとしても、それを一世代で樹立することはできないし、ただ生存だけを目的として、それを計画することもできない。公的空間は、死すべき人間の一生を超えなくてはならないのである」(アーレント 1994:82)。
 このもう少し後に、キリスト教の倫理は、政治的責任はなによりも重荷となり、ただ公的問題に頭を悩ます心配の人々を幸福にし救済するためである(89頁)とありますからだ。アーレントは、キリスト教と公共性は「両立しないと考え」てることは確かだろう。この章(公的領域と私的領域)の議論は、マルクスユダヤ人問題ないしはヘーゲル法哲学批判序説の議論を下敷きにしていることは明確で、マルクスの未来予測の誤りが、仕事と労働の根本的な差異、それを媒介にする〈活動〉の概念の取り違えから来ていると説明している……のように思える。
 マルクスは、宗教の多様性多元性を容認せずに、宗教間に優劣をつけて、一種が考える弁証法的な進化という連中の思考のオートマチズムを批判したわけでしょう。彼は「宗教の多様性多元性」というのものが、政治=国家=公共性にとって無関係の存在として、宗教を無力化できると考えて、それ以降、エンゲルスとともに、経済学批判に向かいます。
 同化ユダヤ人のアーレントの場合、シオニズム反ユダヤ主義、ナチズム、全体主義という、それこそ、現代の政治思想研究の諸難問群――全体主義においてはeverything happensという究極のcontingency――を生きた人ですから、マルクスの処方に深い共感を覚えつつ、この問題が解明されていない――そもそも解明できるのかという政治実践と論理の「共存」という難問はさておき――以前の「状況」の中に再度身をおいて考えようとしたのでしょう。彼女も先祖返りといえないこともないし、これまでアーレント研究者からも、古代ギリシャ・ローマかい?というコメントを僕は数多く聞いてきたけど、単純な先祖返りではないと思いますが。ただし、宗教と政治の共存や両立ということが、問題とされていない。「何を信じている」ということなど一切関係なしに、ある集団的属性(ユダヤ人)を本質的に(無から有を作り出す/造りだされた――アウグスチヌス)構築されてしまうことをただひたすら問題にされたのではないでしょうか。だから『人間の条件』の第2章は、古代的な、私的=家族、公的=政治の峻別の中に〈社会〉がどのように関わっていくのか、だけにただひたすら議論――意味をとりかねるところや表現が多々ある――します。