「コムニケイションとしての医学」

 中川米造は1992年の『日本保健医療行動科学会年報』第7号に「コミュニケーション・ストラテジー」という論文を寄稿した。彼は1996年に出版された生前の最後の著書『医学の不確実性』なかで、「コムニケイションとしての医学」という最終章で自著を締めくくっている。中川の晩年は、大学の垣根を越えたワークショップを組織し医学生へのコミュニケーション教育に情熱を注いでいた。そこで彼は、人と人を強力につなげる対人コミュニケーション技法に並々ならぬ関心を持っており、またそれを自家薬籠中のものにしていた。コミュニケーションという言葉は当時の彼がよく口にしていた用語であり、それは、主に医師―患者関係を彼が言うところのパターナリズム(父権的保護主義)からの脱却させようとしていた。彼はパターナリズムに代わるケア実践を対話モデルによって組み換えようとしていたとも解釈できる。そこではヘルスコミュニケーションには、なにか具体的な実質があり、良きもので、そして人間にとって普遍的なものだという彼の見解を見事に反映するものと思われる。
 中川もしばしば引用していたスペインの医師であり歴史家、哲学者であったペドロ・ライン・エントラルゴ(Pedro Lain Entralgo, 1908-2001)は『医者と患者』を著したが、そのスペイン語の初版は1964年(邦訳1973年)に公刊された。『医者と患者』の第5章は「医者―患者関係の構造」と題され、「医者―患者間のコミュニケーション」から説き起こされているところが眼を引く[Entralgo 2003]。英米語圏の医療社会学では、「医者―患者関係」は1956年のサズとホレンダーの米国医学会(AMA)の『内科学雑誌(Archives of Internal Medicine)』に掲載された論文のなかでの指摘がもっとも古く初期に現れたと言えるだろう[Szasz and Hollender 1956]。医者―患者関係(Doctor-Patient relationship)は、よくその頭文字をとってD―P関係と言い換えられ、久しく医療関係論のなかで最も基本的なモデルとされてきた。今日でもその伝統は生き残っており、医者も患者も、その属性や役割などが拡張されて現在では「実践家―クライアント関係(practitioner-client relationship)」などと呼び習わされていることは周知のとおりである[Gabe et al. 2004:96-101]。サズとホレンダーの記念碑的論文の冒頭は、まず異文化経験が生みだす「慣習」への読者の関心を誘いつつ、医療実践を保証する文脈のなかでの医者と患者の関係もまた慣習であることから説き起こしている。この立場は、コミュニケーションを可能にするのは、コミュニケーション主体の相互作用である。D―P関係は、そこで交わされる情報は、今日ではしばしば守秘義務が求められることがあり、メディアを使った医療情報の開示に要求される正確性や透明性の確保や、メディア・リテラシーへの配慮などといった倫理的な側面が強調されることは少ない。