医療と看護の改革について

ツイッターに「看護研究なんて不毛なものをやめたら職場に残る看護師も増えると思うんだが。良い看護につながるわけもなさそうな中身ならやらない方がまし」という糞馬鹿な投稿があった。俺はこれを投稿した医者が糞馬鹿だとは思わない。了見が狭いなりに「良い看護」をしてほしいという一片の希望の表明もみられるからだ。(たぶん)彼は自分の身の回りにある学位取得が先鋭化している看護研究と現場との貢献に関する短期的な〈関係の無さ〉という個人的心証を、過度に一般化しているすぎない。単に間違った議論=誤謬をしているに過ぎない。だから糞馬鹿な投稿である。もちろんそのような糞馬鹿な投稿をすると、ツイッター上では、そいつの人格や理性なども問われるので、やっぱり発言者も糞馬鹿な医者だと思われてしまう。ツイッターという投稿形式が、どうもその人の真意とは無関係なものにやってしまいやすいものになるようだ。医療界には、十分な熟議をすることになく「良い医療・良い看護」をしなければならないというドグマ主義という宿痾があるようだ。医学書院発行の『医学界新聞』にはこのドグマ主義が跋扈して毎回頭痛がするくらいだ。現場の管理職や臨床系や看護系の大学教授が阿呆陀羅経のごとくこの無意味なスローガンをあいもかわらず叫んでいる(俺が医療人類学を学びはじめた頃からだから30年以上この調子だ)。医学・看護学教育にきちんと、議論のやり方や哲学の基礎を盛り込むべきだろう。臨床哲学は関係者と出合って有望株のひとつだが近年は盛り上がりに欠ける。そのカリキュラム改革は、国試を小手先で変えるだけではだめだ。そしてこの抜本的な提案の声は、現場の(もっと)糞馬鹿な大学教授どもの耳に届かないだろう。あの学術権力の頂点に登り詰めた黒川先生の日本の洗濯ですらできなかったことだ。十年、二十年以上もかかる骨太の計画が必要かもしれない。