「臨終の智慧」というものはあるのか?

Kさんへ
 そう考えると、やはり、人間にとって死を迎えることは、ある意味で堪え難く辛いことなのだが、死をめぐる儀礼や慣習が、そのような死への恐怖を、それぞれの社会で「飼い馴らす」ように形作られていると考えるとよいことわかります。
では、ここで生じる新たな問題は、まず次の2つですね。
(1)人間にとって死を迎えることは、ある意味で堪え難く辛いことだが、その「理解」は、文化(=社会や歴史が規定する)の差異を超えて普遍的なものだろうか? それとも共通性よりも差異と多様性のほうがでかいのか? 共通性があるなら、どこまでも地球上で共通なのか、それとも、大陸や地域によってより細かな類似点があるのか、それともないのか?ということですね。
(2)もし当該社会の人たちが、死を飼い馴らすことができているとすれば、それは、連中が死をめぐる儀礼や慣習をもっているから、死の恐怖から逃れていることが可能になっているのか? それとも、死をめぐる儀礼や慣習をもっていても、それでもなお死の恐怖があり、十全に飼い馴らしていくことができないので――どのような社会にも「幸せな死」と「不幸な死」というものがある――、それが、さらに死をめぐる儀礼や慣習を強化、洗練させてゆくことがある。極端な話、現代日本では、それが文化や伝統で十分支えきれないので、斎場のオートメーション化や、近代医療のホスピス(あるいはデス・エデュケーション)などが、それを補完するために登場したのか? などなど。
Kさんが想定される「死の智慧」「臨終の智慧」というものは、そのような社会的制度に裏付けられるようなものかもしれません。したがって、そこの部分を、俺達日本人が会得しても、社会的制度がぬきには、少なくとも俺達の臨終の際には有効に機能してくれない可能性がありますし、そんなことをテレビで知っても「へー」と蘊蓄に納得するだけに終わるという危惧も生じます。
「死の智慧」「臨終の智慧」が、どのようなものであるのか、それを仮説として理解することも重要ですが、その仮説の存在が証明されたとしても、それを知ることにどのような意味が「俺達」にあるのか、について考える時が来たようです。