原爆インセストタブー論

「私たちが地球と命を汚しました。私たちは汚れました。もう、たくさんだ。もうこんなこと、やめましょう」(上野千鶴子)というメッセージがある。でもこうは言わないのか?/言うことはできないのか?「私たちが地球と命を汚しました。私たちは汚れました。もう、たくさんだ。だからこの世からおさらばします」と?
あるいは、私たちが地球と命を汚しました。私たちは汚れました。ならばいっそのこと、もっと汚して、この世とおさらばしましょう、とな?
別の観点から言うと、この最初の発言には、すでに犯した自己の過ちに関する贖罪(=根本的な転換や改宗)という発想がない。命がけの跳躍というものがない。原発の原罪を見てみぬふりをする厚顔ほど恥知らずではないが、態度を転換すれば(=もうこんなこと、やめましょう)なんとかなるという点では、同じプラットフォームにいる自称良心派の人畜無害な脱原発論にすぎぬ。
日本の反原爆運動は(原水協よりは原水禁のほうだが)死者への絶対的な弔いから出発しました。それがいつのまにか生きている奴がその怨念を語るために生きのびたい理由に変節しました。生き残った奴のうち多少知恵のあるやつは生き残るための正当化を必要としたのです。死んだやつには原爆(や原発あるいは地震津波)は理由など必要のない絶対悪なのです。反原発も同様の論法で、地球を汚す/汚さないという糞な理由を探す必要はない。パグウォッシュの連中は(合理的ぬきに)贖罪か改宗のノリで主張している。反原爆・反原発は人間のインセスト憎悪のように、合理的正当化など探さなくてよいのです。