観念的な「部落」など存在しませんが、観念化する差別は厳然と存在し

>> 私の浅い経験と見解によりますが、部落民差別というのは厳然と存在しますが、佐野さんの表現するようなDNAを含めて「部落民」あるいは「被差別部落の出身者」とそうでない人を、根本的にわける弁別指標(根拠)は存在しません。だからそんなラベルは、不動産屋が仰々しく機密情報よろしく住所にアステリスクをつけたり外したりするような愚かな行為に似て恣意的で無意味で、そしてかつ無根拠なラベルつけにほかなりません。にも関わらず「部落」と我々が使う必要があるのは、人権教育において差別用語を連呼して歴史の悲劇を明記する必要があるように、好むと好まざるとに関わらず否定的なアイデンティティとして、当事者の人たちを苦しめてきたことをヴァーチャルに「思い起こす」必要があるからです。無根拠ですが、差別があるかぎり、我々がそのことを克服して、(奴隷制や人身売買と同様)アホなものだと我々自身が認識するまでは、必要悪のように語彙として担保する必要があるのです。しかし、それは「彼らは普通の人だと」一見、差別を否認するが、一度差異をつくってから、そんなものはないという、説教強盗のように、罪深く、差別を再生産しているにほかなりません。資本論を最後まで読まずとも「地獄への道は善意の石で敷き詰められている」ぐらいの教訓は知っているでしょう??「だから部落の奴は良い奴だ、ふつうの人だ」という表明は、「部落民」への共感でも連帯の表明ではなく、自分が「部落民」でないことを前提に__なぜなら超えられない絶対的な差異があると本人は信じているから__川の向こうの安全地帯から声援をおくるか、せいぜい、金持ちの貧乏人に対する「慈愛」以上の意味はないのです。