ドナウの歴史

mitzubishi2012-07-14

ギリシア人は河口から鉄門までのドナウ川を知っており、イストロス川と呼んだ。ローマ帝国もほぼ同じ地域まで進出し、ヒステール川と呼んだ。 ローマ帝国時代には、ほとんど源流から河口までの全域が、蛮族に対する帝国の北方の防衛線の役割を果たした。ウィーン、ブダペストベオグラード、ソフィアといった各国の首都はこの時期の最重要基地に起源を持つ。/中世には十字軍、あるいはオスマン帝国の兵や物資を運ぶ輸送路となった。17世紀には大まかに上流・中流部がハプスブルグ家のオーストリア領に、下流部がオスマン帝国領となった。[19世紀]には上流・中流部はオーストリアハンガリー二重帝国領となり産業開発が進んだ。ドナウ川は二重帝国を結びつける大動脈となり、このことからこのころのハプスブルグ帝国をドナウ帝国と呼ぶこともある。この時期には民族自決の動きが盛んになる中、二重帝国制を改組し諸民族が同等の権利を持つ連邦国家、ドナウ連邦の構想がなされた。一方、下流部においてはオスマン帝国の勢力が衰える中、ルーマニアブルガリアセルビアといった新独立国が誕生した」(出典:「ドナウ川」ウィキ=日本語)。