ルソーの時代にはゲーム論もナッシュ均衡なし〜♫

(知恵袋の)ベストアンサー、エレガントにdemodori319さんが答えています。ゲームという観点から見たら、と(→出典:ルソーの『社会契約論』にある「自由であるように強制される」の意味について)。この答えは、ベストでもまたエレガントでもありません。この可哀想な御仁はルソーと同じ水準(=視点)で物事を考えていないからです。

まず、「自由であるように強制される」のは市民であり、そのような強制をしているのは政府だと「市民が思い込むこと/信じること」がルソーにとって主張されているので、そのこと抜きに「自由であるように強制される」といことを難問化することはできません。バーリンの消極的/積極的自由(〜の自由/〜への自由)の区別もまだ始まりません。
この答え(1)
 だって、Be Free は命令法でしょう?!(自由を強制される、というのは我々の日常語において可能なのです)
この答え(2)
 社会は全員が参加するゲームの強制制度だという解釈だけど、自由が強制されるというルソーの表現を十分に説明しつくせない。むしろ、社会の外に人間というものは存在しない(これは「社会など存在しない」サッチャーの意見と真逆で、人間の共同性には社会のみしか存在しない、社会というものを人類は必須とする)ということを表現し、自由が天賦の権能として可能になるのは社会というものがあってのみ、という、社会の必然性、あるいは人間は社会[性]なるものから、逃亡することができない。つまり、社会は人間をして自由というものを強制する制度(=フィクション=人間が社会契約にもとづき作りあげたフィクション)に他ならないと言っているのではないでしょうか。ここがルソーの「契約国家論」の要衝です。そして、ルソーは、人間が国家(政府)によって、人間的な存在として倫理的に可能になることまで信じているようです――それ以前の国家観は国家というのは人民にとって必要悪でしたので。ルソーが、ナッシュ均衡の理論的含意など知るよしもないでしょうし、ゲーム論的発想(例:社会のなかで生きるためにはゲーム論的メティス[狡知]が必要)など、社会なるものを相対化する術も知らなかったでしょうから。
文献
ジャン=ジャック・ルソーは囚人のジレンマを感じるのか?