レーニン主義的「修辞」の本質

う〜ん、なんだか労農派と講座派の論争時代に逆戻りしましたね。(?!)
メキシコのサパタ(あるいはサパタ派)はEZLNに至るまで"Tierra y Libertad"ですからね。
先の、サエス・ハラは(末尾のほうで)革命あるいは武装闘争の「ための」先住民(少数民)の巻き込みという目的論が先にあって、後者から前者への方向性などはなかった旨を書いていますが、そのとおりだと思います。
別に論証するわけではないし、針小棒大も慎まねばなりませんが、レオン=ポルティージョだか誰か著名なインディヘニスタ=唯物論者が「サパタは先住民言語を理解したか?」という内容の小さい本を出しています。サパタの署名を付してサパタ派が出した2つの政治コミュニケのバイリンガル版(ナワ語とスペイン語)を検討して、この著者はサパタは先住民言語を話せたと「論証」するのです。僕なんかは、だからなんなんだ?(so what?)と思いますね。(ハーバードの若き秀才ウォーマック・ジュニアの伝記にある「話せても片言」という片言隻語にカチンとした件の著者の「論証」がこれです)。ポイントは、サパタがバイリンガルでもモノリンガルでも、彼の政治コミュニケの本質は変わらなかったということなのに。ましてや、バイリンガリズムの父でもなんでもありません。贔屓のひきたおしや、レーニン主義の修辞ここに極まれりという感じでしょうかね。
メキシコの知識人や政治家(あるい意味ではメキシコ人という国民性)は、その意味ではサパタ・コンプレックスは国民的伝統ですし、EZLNが未だに生き残れている理由でもあると思います。
ま、人類学の知的未成熟は(その修辞の行使にはお国事情があるものの)どこも同じような事情で――だからこそ人類学は面白いと思いますが――克服しなければならない自己批判するテーマが満載ですね。