〈なになに人〉とのおつきあい方法

僕は(研究グループの友人達や在留邦人と共に)グアテマラに長く関わっていますが、彼のような心情(=「かつて現地でお世話になった〈〜人〉に日本で支援してあげたい」)を吐露するような気持ちにはなったことがありません。現地の人と、移民で来日している人が、同じ外国人でも、その友愛性や恩義は、それぞれの個人や家族に帰結するもので、どうして、その外国籍の人々〈〜人〉というカテゴリーに帰結するのかちょっと理解に苦しみます。私の理解では、このような発想は、第二次大戦で現地人と一緒に闘ったり働いたりしたインドネシアビルマの元日本兵(もちろん一部)が抱いていた心情ととても類似していると思います。あるいは、東南アジアは日系企業が進出しているところが多いから、両国の関係性も深いので、そのような感情になるのでしょうか。でも、私は2つの意味で、このような心情は屈折していると思います_強い批判意識はありませんが、中長期には健全とは思えません。つまり(1)人間を理解する時に、その発想が国家、国民という単位でくくられていること(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』)、そして(2)パターナリズムですね。外国の人は保護対象でしかない。しかし、そのような人たちが自分たちの権利を主張しだすと、パターナリストは「当惑」するか、最悪の場合は「恩義を忘れた」と逆ギレするかもしれません(ハンナ・アーレント反ユダヤ主義』)。「外国」人とおつきあいするには、カテゴリー間の距離の取り方と節度がとても難しいことをよく感じます。どちらがよいか悪いかという問題よりも、ある立場をとることが、つねに(人類学的)倫理的関係・道徳的関係を引き出すことがあるということでしょう。