和田文治郎(1898-1958)

和田文治郎(1898-1958)
「和田文治郎は、昭和14年樺太豊原市に転居以来、樺太庁立病院耳鼻科医師として、また樺太医学専門学校開設後、その教官として在職した。当初、好事的にアイヌ関係文献の蒐集や考古学的調査を行っていたが、偶々樺太庁立豊原女学校の教官をされていた知里真志保氏と知り合い、大いに啓発されてから、興味の中心がアイヌ語に移行した。以来昭和20年頃まで南樺太全域に調査旅行のくり返し、主としてアイヌ語の人体名、病名、薬用動植物名、説話の採録を行っている。終戦時に、その資料の多くは四散したが、かなりのものは終戦前に北海道に移った知里氏の手許に残り、また少数は昭和22年の引揚げの時持ち帰った。戦後、北海道で士別、稚内、網走、滝川、静内の保健所長を歴任し、昭和33年静内で死亡した。北海道においては、種々の理由であまり活発なフィールドワークを行えなかった。しかし、残された若干の資料は資料を何とかまとめておこうとする意図があったらしく、樺太方言を中心とする未発表原稿を二三残している」(和田 1964:100)
・和田完、1964「アイヌ語病名について:和田文治郎遺稿1」『民族学研究』22(2):99-112.
・和田完、1965「アイヌ語病名資料:和田文治郎遺稿1」『民族学研究』30(1):47-67.