仕分け作業は、本当に大学教育にとって悪なのか?

 文科省への仕分けについて、科学者とよばれる大学関係者たちが「抗議」の声をあげている。どうも仕分けのやり方が気に入らないらしい。
 でも見識ある市民(そういう人たちが日本に存在してきたとしての話だが)に俺たち科学者が、そのわくわく感をマジで伝えてきただろうか? 俺たちのこれまでの努力について自負があるとすれば、それが「怒り」や「仕分けチームの見識のなさ」という一種の呪詛やルサンチマンのかたちでしか表現できないのは表現者としての科学者の能力に欠ける。
 朝日新聞に掲載されていた6人のノーベル賞フィールズ賞受賞者の面々の顔が、有罪が確定したマフィアのボスたちの顔に見えるのは私の錯覚か?「真理の探究者としての見識やプライド」がなさ過ぎるのではないか?(あそこにファンキーな受賞者M先生とT先生が居なかったのが俺にとっては唯一の救いだ!!!)。
 もちろん俺たちの職場でも、この種の呪詛やルサンチマンが飛び交っている[2009年11月26日は学内で「抗議文案」の電子メールや添付ファイルが飛び回っていた]。予算が減る、研究が自由にできない、学生に迷惑がかかる、というのはもっともなガクシャ様のご意見だが、科学する楽しみやわくわく感を自分たちだけで享受して、教え子ひいては国民全体――当然見識ある市民が含まれる――にそれを伝える努力を十全にやってきた末の発言だろうか?(俺たちの周りにも客観的にそうでない奴が「そうだ」と居直る姿を見るのは馬鹿らしいよりも、その愚かな言挙げに情けなくなるなる)
 そうい意味では、この仕分けチームによる「兵糧攻め」は、我々が知らない間に身につけてきた贅肉をそぎ落とす好機かもしれない。もちろん、こういうことを同僚に話しても9割方の人からは反対されることだろうし、俺の意見は危機意識に欠けると言われるかもしれない。でも俺たちは賢人などではなく世間知らずだとあえて(繰り返し)言いたい。OECD勧告で昔から言われきた国立大学教育の無償化というグローバルスタンダードに耳を貸さなかったのは政府や当局のみならず、俺たち教員集団も自分たちの高度教養教育の危機とは思わず人ごとのように無視をしてきた。その漬けを払うときがキターと考えると、この国家による兵糧攻めが、まったく根拠のない(直接的で言われ無き)暴力であるとは単純には思えない。
行政刷新会議「事業仕分け」事業番号3-52(全文掲載)