デイビッド・ヒューム頌

テッドさんへ
 ウィジェット笑い男はよかった!
というのは、私は外国の天気か、電卓以外にダッシュボードを使うことはなかったからです。
これで開く時には楽しみ(驚き)をえることができました。感謝
WWW.UNIの立て看がなくなることを悲しんでいけません。
 俺たち(=組織の飼い犬)が死にかけている野良犬(=立て看のセクト)の残飯(=給料)をきれいに喰ったんだからね……
こういう爆弾を落とした主が未来になって被害者たちを哀悼するというのを(=米国の例では9.11のグランドゼロが観光地になること、日本人が真珠湾攻撃の犠牲者に花束を献げること)レナート・ロザルドは帝国主義的ノスタルジーと書きました。
 笑い男で私がもっとも考えさせられたのは Seeing is believing というのが、電脳化された世界や身体では意味をなさなくなること。盲(めしい)のように視覚表象以外に頼るように、感覚世界の編成を変えればよいのだが、視覚を代替・伸展させるように電脳は進化しているので、そういう方向にテクノロジーが定向進化しない(ご存じのように、電脳化世界ではテクノロジーと人間は、オブジェクトとエージェントの関係ではなく、それ自体が融合したオブジェクティブ・エージェントなのです)つまり「想像=創造できない」のです。
 しかし、そういう懐疑論は、わざわざ最後になって大澤真幸などの訳知りをださなくてもディビッド・ヒュームやバークリ(「視覚論」)などが大昔に言っていることです。電脳すなわちシナプス化した脳はさっさとそういう考え方に到達している)。ちなみに、あの図書館のシーンは私は大好きですけどね。
 ま、そんなこと。
 私はテッドさんとは逆にこれから高知にでかけます。