ラザロの蘇り(アマゾン・レビューにポスト)

ドイツ映画:Das Leben der Anderen をみる。あまりにも感動したのでアマゾンでレビューを書く。しかしながら巨乳の売春婦という語彙や原理主義的なキリスト教者たちを「刺激」するために、アマゾンの自己検閲に引っかかるかもしれない。そのため、こちらで先に書いておく。部屋ではたぶん将来にわたってだれもカバーなどをするはずがないであろう「天気予報」のブギウギ・ワルツが流れている。
 本作品の評価は、ドラマツルギーの妙であるとか、監視社会の恐ろしさなどを通してヒューマニズムを謳うものがほとんどだが、私は聖書のアレゴリー(寓意)としてこの映画をみた。したがって、このレビューは未見の方よりも既見の方むけの再鑑賞のすすめを目的とする。
 さて、S・セガール似のコッホ演じる劇作家ドライマンは、シュタージ(国家警察)により[ヨハネ福音書の]ラザロというコードネームが与えられる。ドライマンを監視するヴィッスラー大尉は独身であり巨乳の[マグダラの]売春婦との関係があるだけだ。ヴィッスラーの冷酷残虐なことは無比であるが、それはサディステック性癖からではなく仕事へ(=神の教え)の忠誠にもとづくものである。ヴィッスラーはクリスティナ(CMS)に同情を寄せるが、それは彼じしんがクリスティナ(コードネームはマルタ!)とドライマンの運命を(不本意ながらも)弄んだことを後悔しているからだ。ヴィッスラーは、ドライマンのソナタを盗聴のイヤホンから聞き涙するが、それはドライマンの予告された死を先に彼が感じて同情するからである(それに前後してヴィッスラーは自室でブレヒトの詩[旧約の詩編]を読む)。作劇上、ほとんど不可能で超自然的にも思えるドライマンの秘密のタイプライターの隠匿を可能にする。そのインクリボンは血の色のように赤く、それはヴィッスラーのコードネームであるHGW XX/7[私にはINRIとまで読める]のラザロ作戦の最終報告書のシミ[聖骸]として残される。マルタはドライマンを生き返らせる供犠として屠られる。左遷され地下室[処刑の後埋葬を意味]で封書を開放するヴィッスラーは、ベルリンの壁の崩壊後に地上に出て[再生]でチラシを配るパートのおじさんになるが、その姿がまったく落ちぶれたように見えないことが重要だ。ドライマンの冷戦時代の自伝の献辞のなかにヴィッスラーは自分のコードネームを発見するが、カール・マルクスの名を冠した書店の売り子がギフトラップを申し出ることに対して「自分のためだ」と淡々と言うところは、全くカタルシスの涙を抜きにしては見られない。
 秘密警察や防諜組織のメンバーがこのような所業にでることは経験的にはあり得ない話であり、また本作品の最初のクライマックスであるタイプライターの持ち出しも物語としては荒唐無稽だ。にもかかわらずヴィッスラーがその奇跡をなんなくおこなってしまうこと。ヴィッスラーが冷戦後に落ちぶれても老化していないこと[不死]から、私(評者)はこの物語は新約聖書アレゴリー、それも人間救済の物語であることを強く感じる。。原題もDas Leben der Anderen(他者たちの命=生活)となっているではないか。もちろん、そのような見方を私は他の人に強要する気はないが、このような解釈から読み解けばコーエン兄弟監督『ノー・カントリー・フォー・オールドメン』同様、まったく違った角度からハマって何度も再鑑賞に耐える名作であることがわかる。