構造的政治?・構造的権力行使?

 平和学や紛争解決学におけるガルトゥングの名声は言うまでもない。世の数多には、彼のエピゴーネンが多くいる。また、ガルトゥングの着想にヒントを得て、多くの興味深い平和理論研究が続いていることも事実。ガルトゥングの「構造的暴力」の概念の魅力や有効性を否定するわけにはいかない。しかし、この用語には、我々にとって、ややこしくてコントロールがきかないものには、なにか「構造的複雑さ」あるいは「カオス」があると、安直に表現してしまう魅力=魔術があるようだ。この言葉が、考えようによっては、持続的な思考や他のオプションさらには、実践の論理を引き出すことにブレーキになるということを否定することはできない。冷戦期なら「構造的複雑さ」のかわりに「敵陣営の陰謀」という言葉がしばしば使われただろう。ポスト冷戦期に、北欧の平和学者の発言が、エコロジー時代に、東アフリカの環境社会運動家の発言が、「ご当地の香り」よろしく、魅力=魔術ある言葉になっていることを誰が否定できるのだろうか?
 幼児の臓器移植をめぐる下記のような患者当事者と医療による国内キャンペーンもまた、構造的政治といえるのか?――政治はつねに構造的なものなのかもしれないが?
 下記の新聞報道は、日本の国会議員どもが超党派で盛り上がっている臓器移植法改正にはずみをかける、立法府外つまり場外「ポリティクス活動」ないしは「感情を逆撫でする」ことを武器にした院外ロビー活動を伝えるだけの記事のように思える。しかし、こんな読売のベタな幼稚な記事でも、意外と重要なポイントが見え隠れする。私なら、こう読みたい。
(1)WHOが渡航移植の自粛を求める指針を発表した背景には、途上国から先進国へ、経済的弱者から強者へ、経済のからむ「不正臓器取引」(Organ trafficking)があり、ほとんどグローバルレベルでの問題になっていること。
(2)かつて日米臓器摩擦とよばれる問題が、すでに世界的なレベルに広がり、日本人の海外での臓器調達が問題視されるようになり、受け入れの機関で等閑視することができなくなった。
(3)臓器の国内ブランドによる調達体制の確立のためには、臓器移植法を改正して、幼児・児童の脳死判定基準を確立し、児童屍体からの臓器摘出を可能にしなければならないということだ。
(4)ネオリベラリズム原理によるグローバリゼーションの流れからみると、臓器調達の「正規ブランド」化と国内調達の確保というのは、人口比で臓器調達の可能性が限定されるわけだから、これは奇妙な貿易障壁を生むことになる――「無償の贈与行為」に貿易障壁などのへったくれもなにもないはずなのに……。

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「東京都内の男性が、重い心臓病を抱える2歳の長男の心臓移植を米コロンビア大に依頼したところ、拒否されていたことが14日、わかった。/世界保健機関(WHO)は来月、渡航移植の自粛を求める指針を発表する予定で、日本移植学会幹部は「米国も外国人の受け入れを厳しく制限し始めた」とみている。/拒否されたのは、東京都三鷹市の会社員片桐泰斗さん(31)の長男、鳳究(ほうく)ちゃん。14日、患者団体が都内で開いた臓器移植法改正を訴える集会で明らかにした。鳳究ちゃんは昨年10月、難病の拘束型心筋症と診断され、片桐さんが今年2月、同大に移植を依頼した。/日本人の心臓病患者を受け入れる国は現在、米国だけで、同大はその主要施設の一つ。/米国の医療機関は、年間移植件数の5%まで外国人を受け入れている。だが、欧州で唯一日本人を受け入れていたドイツが3月で中止した影響もあり、同大には今年、日本人患者5人が集中。片桐さんは同大側から「既に今年の『5%枠』は埋まった」と言われたという。/鳳究ちゃんが入院する大阪大の福島教偉准教授は、「これまでは5%枠より1、2人の超過は黙認されていた。WHOなどの動きもあって厳格化したのだろう」とみている。片桐さんは今後、鳳究ちゃんの受け入れ施設を探しながら、募金活動を始める。片桐さんは「なぜ日本で子供を救えないのか。臓器移植法を改正してほしい」と訴えている」(headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090415-00000088-yom-sci)。