奇天烈なジャーゴンも休み休み言いたい

最近おくられてきた学会誌の巻頭論文のアブストラクトの最初の一文はこうである。
「グリーン・ネオリベラリズム的資源管理レジームを支える統治性は、自然の管理者として人間を訓練し、規範化し、エコ・ラショナルな主体を作り出す」(関 恒樹「グリーン・ネオリベラリズムとエイジェンシーの共同体」『文化人類学』73-4,2009)。
フィリピンの漁民資源管理を取り扱った、この論文にはエコ・ラショナルな主体形成についての具体的な諸相の記述はなく、考察の最後に「エコ・ラショナルな公共性を内面化した主体」(429ページ)という文言がわずかに登場するのみである。この重箱の隅をほじくる細かいミニパラダイムの内部では、この術語は常識なのだろうが、門外漢にとっては、なぜこの珍妙な用語を紡ぎ出す必要があるのかさっぱりわからん。匿名の査読者はいったいこの論文を改善するために、どのような努力をしたのか?_編集委員長(当時)は春日直樹である。また調査は立教大学の立派な研究費をもらって実施されたらしい。ここには誇大妄想狂や似非研究者はいない。みんな立派な研究能力をもった理性的な人たちである。そういう人たちが、こういう文書を書くのだ。どこか狂っている。
この國の文化人類学は、まさに No "NEW"cultural anthropology for old man(sic) だ。理解できないものに沈黙を強いるアカデミズムに民主主義などない。昨夜の鶴見俊輔のインタービューをみたからかもしれないが、この気分はなおさらだ。