臓器=供犠論のゆくえ

アンリ・ユベールとの共著の供犠ですか?
供犠論を臓器移植の家族になぞらえると犠牲(=イサク)を差し出すアブラハムの心の内奥を探るってな話になりますが、社会学における供犠論は、社会にとっての犠牲者の意味で、アブラハムの内奥などを知るかってことになりませんかね。
むしろ、アイヌの熊祭りのように、親熊から略奪して聖別して大切に育て、さらに、それを供犠として神に返すとか、アンデスのミイラ崇拝のように、愛情と供犠が合致するなかに、臓器移植における類似の感情を見出しますがね。
暴力があるから倫理を構想するというのは今村テーゼ。供犠は今村理論だと第三項排除の対象となるので、相互承認や規約のための倫理ではなく、供犠の条件の統制(=供犠の品質管理)のシステムに乗っかるのではないだろうか。つまり供犠の品質管理に合格しないものは(方輪の動物や、非処女、初潮後の女性)などは純粋な供犠の対象にならない(でないと神罰が下る)。同様に、商品交換のシステムにのった臓器、病気の臓器、前の所有者が権利主張する臓器なども「よい供犠」の対象にならない、などということを思い出しました。