授業改善案

「時間通り終わってほしい」といういつものようなコメントがありましたね。
これは契約という観点から対応すべきで、そうするとやはりグループの発表の数を減らしますかね。
他方「課題が難しい」というのは言語同断・なにおか言わんや、という感じがします。しかし、学内外のいろいろなレポートを読むと「分かり易い授業」への熱望と「ややこしい難問を解きたがらない傾向」が、どうも共存しているようなので、現在の水準をこれ以上落とすのは忍びない感じもします。
そうすると考えられる処方せんは2つの要求を同時に満たすものでないとなりません。
(1)理解のレベルが低い者への対策→→エクストラの資料呈示や、他のメンバーの水準に追いつくような〈最低限の学問的コンセンサス〉の呈示
(2)それなりに満足した者への対策→→授業で到達した直感や感慨をきちんと文書の形で残しておくという〈自主的な宿題〉の呈示
このことの効果は次のとおり
(1)〈最低限の学問的コンセンサス〉の呈示により自分で取り組む考え方への補助になるし、それでも分からない場合は、本人の自己責任に帰することができる。
(2)〈自主的な宿題〉を見てくれという篤信な学生には、きちんと対応すれば、将来の大物になる可能性のある学生を発見でき、教員にとってもメリットあり!

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《トホホの瞬間》
コミュニケーションデザインの勉強のための、最近ネットからダウンロードして文章を読む日々である。(もちろんブログやウェブページにも書く)
2006年に亡くなった香内三郎の「イニス、マクルーハンのメディア・コミュニケーションの理論の位置(II)」というものがある。実質上、絶筆になったものであり奥さんが末尾で書くように校正は本人によるものではない。もちろん文献や注釈のつめも唐突な部分があり、草稿を読んでいる感もある。ネットでpdfで手に入る。本文の末尾も自分の死を予言するかのような唐突なマクルハーンの死について一行で締めくくるという不気味さだ。しかし、論文の細部は、さすが歴史研究に強いメディア論の大家であることを保証するものだ。ただし、この文献そのものの出典が記載していない。幸い京都精華大学のX氏(本人の名誉のためのあえて伏す)のこれまたpdfの論文の中に引用してあり、ようやくそれについて知ることができる。しかし、こちらのほうは、やはりメディア論だが、最初の数パラグラフを読むだけでネットに転がっていそうなチープな解説で読む気がなえてしまう。トホホの瞬間だ。
もし、自分の論文やエッセーが、私の読者にそのような気にさせるものだったら・・・よき書き手とはどういうものだろうか。
香内氏とX氏の違いは単に知識の違いではないと思われる(双方、リッチな文献が満載である)。
私は、自分のもつ関心に関するこだわりだろうと思う。単純に比較するとX氏の論文からは、何を書きたいのかが、わかりにくい。モノローグが延々と続くといった感じなのだ。香内氏の論文もまた、思考の流れのスタイルなのだが、叙述のなかに、明らかに読者をまきこむような、自分の問とそれに対する問題提示、そしてその時点での解答というものが見えるようになっていので、パラグラフ単位ですっとばせたり、また立ち止まって読者はあ〜だ、こ〜だと思わず書き込めるような、ダイアローグをかき立てるような叙述スタイルなのではないかと思われる。
2つの文章のスタイルの対比、そして、そこから何を学ぶかを考えることは重要だと思う瞬間だ。