まぜこぜの効用

リプライありがとうございました。垂水源之介です。
 昨日、○○書店の大阪営業部の若手と中間管理職の人とで「赤色革命」で飲みました。先方の人たちの話についていこうとするのですが、最初は何の話をしているのかわかりませんが、その都度、子供がたずねるように聞いていくと、ようやく自分なりに企業文化のイメージが浮かび、当事者たちが何を問題にし、なにが〈美的なもの〉(=至高なもの)としているのが、宴も最後になって(まだまだ不完全ですが)ようやく見えてきました。具体的な実相を、抽象的――それも言説や構造化されたパターン(表象)としてみる――に把握するには時間がかかるものと再確認した次第。
さて……
なるほど、美に対する感性ねぇ……あるかもしれません、しかし……
じゃあ、そういう製作者に「美に対する感性は?」と聞いても、当事者たちにはそのような抽象的思考を表現することもできない――当事者の経験知や暗黙知に関する準理論的説明をブルデュという社会学者は docta ignorantia (知恵ある無知)と表現しました――し、またそういう世界で抽象的な美学論をしても生産的ではない。こういうのを「後知恵の理論化」と私は読んでおり、知的創造力が減退したかっての大研究者が、晩年にトンデモ理論を産出するようなものです(F.クリックや利根川進みたいなもの?――自分のかつての理論的生産の相対化に失敗した人が、想像力で別の分野で勝負しようとする時にはまる陥穽か?)。
ま、あんまり洋の東西を協調するとかつて京都学派の「今西[錦司]進化論」の贔屓の引き倒しと同様、錬金術的法螺を吹いてしまうことにもなりかねない。洋の東西の比較なんか意味ないと理論的に根拠を出して教え込んでも「洋の東西があったほうがいい」という潜在的欲望(要求)があるかぎりなくなりませんので、そいうのは(大切な部分を除けば)放っておけばいいのです。
やはり生物系の研究者は、お金が多少余っているのであれば、ビジュルアルアートやグラフィックデザイナーなどとコラボして、芸術作品としての「生物学論文」の完成度を高めるトレーニングも積んだほうがいいかも?――ここでも重要なのはまぜこぜには、社会的効用があるということです。
しかし、たんに混ぜればよいということではない。まぜることが、反ユダヤ主義のように混ぜることに過剰反応して、その時の権力者に迎合して(=なにせ大学のポストや研究費が出る)マイノリティを無根拠から根拠のあるような幻想を造り出す(ナチス時代の人類学者がでっちあげたユダヤ人劣等「理論」のような)ことだってありえる。
混ぜることからできる思考の自由度をどこまで高め(また他方で調和という社会統制を必要なのです)保証するのかということでしょう。また国籍による思考パターンの多様性の広がりが、同国人内部での男性と女性、あるいは世代間、学んできた学問的キャリアー、そして思想信条の多様性の広がりよりも小さな場合、やみくもに外人を入れましょうというスローガンが、それほどありがたいものでもない(他の側面における社会的意味や効用はあるけれど)。
他方で科学の住人は[同時に――ここが重要!]コスモポリタンでもあるので、国籍の違いなどどうでもいいと言えばどうでもいいのです。コミュニケーションの齟齬を克服しつつ、じゃんじゃん混じれば(エントロピーの増大つまり放っておけば)いいのです。
光の色がまじりあえば白くなり、絵の具を混ぜればドドメ色になりますね。じゃ民族や文化をまぜれば何色になるか?――何色にもなりませんし、ましてやどす黒くなりません。なぜなら民族や文化は「光」でもましてや「色」ではないからです。貴兄はメタファーの使い方を意図的(ないしは無意識的?)に誤用して、まったく無根拠なものを主張しているのでは?
有職故実による古来の色や日本の古典への造詣は、そこいらの無自覚なニッポンジンよりも諸外国の研究者のほうが、造詣の深い考察をしてまっせ〜。それが可能になるのはなぜか?――決して進駐軍ボストン美術館に日本のお宝を奪っていって、それで研究したからではない。進駐軍の兵士のなかに学者(ないしは学者の卵)がいて「日本の美」を体験し、自分の国の大学に帰っても、そのことをねちっこく追及したからでしょう。その理論が結局、日本の学界に「里帰り」し、日本の学者も「これじゃイカンばい」とより一歩進んだ研究が可能になったのでしょう。古来の色を大切にするきっかけは、当事者じしんの自覚よりも、外部からの刺激によって再発見されたと言えないでしょうか。

追伸:
スロベニアラカン派の思想家スラヴォイ・ジジェクが映画解説するThe Pervert's Guide to Cinema, 2006 を見て久々に胸のすく思いがしました。そのなかでもっとも感動したのは最後のチャップリン「街の灯」の解説です。というのは、ほとんど全編リビドー経済ばりばりのフロイトラカン派の映像解説が速射砲のように150分間続くのですが、最後に映画という視覚表象から我々の無意識の解釈という図式をはじめて「逸脱」し、かっぱらいまでして盲人の美女を救ったホームレスの主人公(チャップリン)の存在が「手の触覚」により明らかになるという逸話を紹介するからです。そこから視覚から触覚という、人間理解の別の可能性(=残余?)を示して終わるというニクイ手法を使うんですなぁ。おまけにその映画(=人生?)がハッピーエンド(telos)である必要はない(=「結末は分からない」)と我々に元気づけてくれるんですよ。ありがたいことでございます。