イライザの門前にて

「イライザを意識する「私」=人間(動物)には他者とコミュニケーションする社会的能力が備わっている(=生得的に組み込まれている)ために、そのスイッチが容易に入り[なぜ?]、イライザを人間ないしは人間的能力を持っているものと錯認する。これは、他者を理解したつもりでも、後から誤解であったことを自覚することと同じメカニズムを説明している。ただし、この能力は人間の両眼からのデータを大脳上で立体像として構成する能力に似て、我々の身体知覚を手掛かりにして〈過激に〉対人コミュニケーションの範囲を拡大する能力と欲望を、我々自身に与えてくれる。イライザを誤解することは、その能力の拡大に伴う代価なのであったことがわかる。彼女の父親の怒りと裏腹に、この種のエピソードが認知科学の可能性を拓いてくれたと同時に、その限界を明らかにすることに貢献したのではないだろうか? ――2008年5月8日」と垂水源之介は言う。