死霊の喜び、あるいはアスペルガー異聞

「JR駅のホームで3月25日夜、岡山県職員(当時38歳)が突き落とされ死亡した事件で、殺人と銃刀法違反の非行事実で家裁送致された大阪府の少年(18)が、捜査段階の簡易精神鑑定で「アスペルガー症候群」と診断されていたことが分かった。事件は岡山家裁から大阪家裁へ移送されている。少年の付添人弁護士が明らかにし、家裁に正式な精神鑑定を申し入れる方針という。/アスペルガー症候群は広汎性発達障害の一種で、コミュニケーションや共感性など対人面や社会性に困難があり、物事に固執する傾向がある。ただ、集中力や記憶力で優れた能力を発揮する人もおり、犯罪傾向とは無関係とされる」(文書一部削除しています)(headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080424-00000002-mai-soci)。

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最後の文章はアスペルガー症候群に対するある種の偏見予防策なんだろうが、前半の文章を読む人は、犯罪との関連を想起しているはず(というかそのような連想を予想するような文章構成なので)、後半との整合性がわかりにくい構造になっている。この場合のアスペルガーの用語の使われ方は、検察側の予備調査(=「捜査段階」というのがそれを明示)で、刑事責任が問いにくい精神疾患の可能性が出てきたということを、ほかならぬ弁護側(=「少年の付添人弁護士」)がマスメディアに情報提供したということだ。もし、そうであるなら、「犯罪傾向とは無関係」という最後の文言は、責任能力において罪が問えるという検察(=もちろん検察はなんでもかんでも闇雲に罪人を作ろうとしているのではない――仮にそう見えても)の想定される主張を代弁しているようにも見えるし、別の少年の差し戻し審の死刑判決のように、弁護側が精神症状や発達遅滞という精神症状に訴えても、心と罪は別だという、これまでの(犯罪行為者と意識の主の)アイデンティティの一致/不一致においてのみ罪が問える/問えないという議論から逸脱した傾向になりつつあるということなのか。宅間死刑囚――今は死霊になったのだろうが――の呪詛「自分を死刑にしてくれという常人ならざる異常な訴えを認める」が甦る。我々の社会は動物裁判や身体刑の世界に逆戻りしつつある。ミッシェルはそれを、これまた死霊としてこの状態を喜ぶのだろうか。