Différence et Répétition

 『差異と反復(Différence et Répétition)』は、哲学者ジル・ドゥルーズが1968年にフランス語で出版社書物である。英語には1994年にポール・パットンにより翻訳されている。
 差異と反復は、ドゥルーズの国家博士論文(Doctorat D'Etat)の第一論文であり、第二論文は『哲学の印象=表現主義スピノザ』であった。
 この仕事は表象の批判に関するものである。この書物のなかで、ドゥルーズは、差異それ自体の〈なか〉での差異と、反復それ自体の〈ため〉の反復の概念について議論を展開している。すなわち、差異と反復の2つの概念は、論理的にも形而上学的にも、同一性=アイデンティティのいかなる概念よりも先立っているということである。何人かのコメンテーターたちは、この本が〈生成(genesis)〉の視点からカントの『純粋理性批判』をドゥルーズが書き換える試みだと指摘している。
■作品の構造
『差異と反復』は序文、イントロダクション、および結論の他に、全5章からなりたっている。
序文(Preface)
 ドゥルーズは、序文を、他のテキストとこの本を関連づけるものとして取り扱っている。彼は、自分の哲学的動機を「ひとつの一般化された反=ヘーゲル主義」(ix ページ)として記載し、差異と反復の〈諸力〉は、ヘーゲルにおける〈同一化=アイデンティティ〉と〈否定〉の概念的代理として利用することができると記している。この用語法上の変化=変更の重要性は、差異と反復が、予測不能な効果を伴って、ともに両方の積極的な諸力をもつことを示している。ドゥルーズは次のように指摘する:ヘーゲルと異なり、彼は弁証法における二元論に対して抵抗する歓喜に満ちて創造的な論理から概念を創造している。彼自身の言葉によると「私は変動する地平に沿って自分の諸概念を作り、作りかえ、そして解体する、それはいつも脱中心化した中心からであり、それら(反復と差異)を反復し差異化するいつも移動を余儀なくしている周縁からである」(xxi ページ)。
 英語版の序文で、ドゥルーズは第3章(思考のイメージ)を、フェリックス・ガタリとの後の彼の仕事の予兆とみなして、それを強調している。
 彼はまた、「結論を先に読むべきだ」と主張するのみならず、「これがこの本の真実であり、読まれるべきは結論で、残りは不要である」とまで主張する(ix ページ)。
◎序文:反復と差異(Introduction: Repetition and Difference)
 ドゥルーズは、序文を「反復」の用語を明確するために利用している。ドゥルーズの反復[の概念]は、〈一般性(generality)〉と対比するために理解することができる。[反復も一般性の]両方の言葉も連結性(connections)を示唆する出来事を記述する[しているからである]。
 一般性[という言葉]は、くりかえし(cycles)、同等性(equalities)そして、法則を通して連結するような出来事を指示する用語である。科学によって直接的に記載することができるほとんどの現象が、一般性である。同一の諸法則により支配されているがゆえに、いっけん孤立した出来事が、何度も何度も繰り返し同一なものの中で起こりえる。水は下方に流れ、太陽の光が暖めてくれるのは、広域に適用可能な原理によっているからである。人間の領域では、規範と法則に協調している行動は、類似の理由で一般性があるとみなされる。科学は、還元と等価性を利用して現実を予言するように見えるために、ほとんどの一般性を取り扱っているのである。
 反復は、ドゥルーズによると、事物や出来事のユニークな(固有の)継起を唯一記述することができる。ピエール・メナードがドンキホーテの正確なテキストを再現するという[ルイス・]ボルヘスの物語は、反復の精髄である。つまり、メナードにおけるセルバンテスの反復は、異なった時空間に翻訳する力によって、呪術的な性質をもつことができるのである。芸術がしばしば反復の源泉であるのは、要素の非芸術的な利用が他の利用[目的]と実際に等価であることによるのだ。(ポップ・アートがこの性質を押し進め、ある種の限界まで近づけているのは、資本主義のレベルに近い生産[過程まで]引き出しているからなのである)。
 人間にとって、反復は潜在的には侵犯的なものになる。『冷酷と残酷』(カポーティ?)にみられるように、社会の一般性から逃走するかのように、ドゥルーズはユーモアと皮肉を同一化する。ユーモアと皮肉が、法と規範から距離をとり、時に法と規範を再制定するかのように振る舞うために、ユーモアと皮肉は反復と同盟関係をもつ。
 キルケゴールニーチェ、ペギーという共通点のみつかりにくい3人から、ドゥルーズは反復について共通の話題について記述する。彼はまた、フロイトの死への欲望[タナトス]の観念とも関連づけている。
 彼は、「概念ぬきの差異」として反復を定義している。反復はすなわち、対立するものよりも、より深い差異のほうに信頼を置く。すなわちよい深い反復とは、より深い差異として特徴づけられるのである。

I. 差異それ自体(I. Difference in Itself)

ドゥルーズは、理性の四本柱(同一性=アイデンティティ、対立、類推=アナロジー、類似)が、反復を支配下におこうとしてきたというふうに哲学史を描くのである。あるひとつのものが、それに先立つ事物に比較される時に、生じる二次的な特徴として差異が取り扱われてきたことを、彼は議論する。同一性=アイデンティティのあいだの直接的な関係のこのネットワークは、多少なりとも曖昧で込み入った現実の差異――勾配、強度、重なり合い、およびそれ以上――のネットワークよりもおおまかに重なっている。
 この章には、さまざまな哲学者が〈存在〉を含む差異の出現をどのように取り扱ってきたのかについての議論が含まれている。このセクションでは、ドゥンス・スコトゥススピノザ、あるいは他のものが「唯一でひとつの存在論的位置づけしかなかった:つまり存在は単声的で‥‥‥単一の声が存在の叫びをあげてきた」事例についてあがっている。すなわち、ある者は〈存在〉を含んで浮上してきた差異の自然(=本質)を理解しようとしてきたのだ。ヘーゲルがどのようにして、矛盾――純粋な対立――がすべての差異を前提とする原理として取り扱っているか、またヘーゲルがそれに続きどのようにして矛盾をすべての世界の手触り(the world's texture)の説明原理として扱っているのかについて、ドゥルーズは記述している。彼はこの概念化が理論的および形而上学的偏向になっていると非難している。
 ドゥルーズは(ライプニッツを引用しつつ)dx の利用、すなわち差分を通して差異がよりよく理解できるかということを提案している。仮想の接線(virtual tangent)を記述することによって、ある関数を導く(導関数の)dy/dx は曲線の構造を決定し、曲線それ自体の外部には何も存在しない(46ページ)。ドゥルーズは、差異は根本的に、否定ではなく肯定の対象にならねばならないと主張する。ニーチェによって、否定というものは、この一時的な力に関係して、二次的で付帯的なものとなった。

II. それ自体のための反復(II. Repetition for Itself)

 より明示的に差異を定義するために、ドゥルーズはいまや、概念抜きの反復と差異に関する彼の概念化が行えるようになる。この章は、反復が生じているなかでおこる時間の異なった3つのレベルを記述することに着手する。ドゥルーズは、公理としての概念、すなわち現在なきの時間は存在しないが、その当の現在は過去と未来を含んでいる、ことを主張する。それらの現在、過去、未来の層は、現在に〈刻印される(inscribed)〉ことが可能な過去と未来のなかで、それぞれ異なったやり方を記述する。この〈刻印〉はより複雑に成長するにつれて、現在の位置づけ(ステータス)それ自体はより抽象的になる。

1.受動的生成(1. Passive synthesis)

 宇宙の基本的な過程は、それらを現在のそれぞれの瞬間(moment)に運んでゆく、あるひとつの運動量(a momentum)をもつ。現実性(リアリティ)の「収縮(contraction)」は、現在に向かう力(force)の分散の集積にあるとみなせる。思考と行動に先立ち、すべての物質は、収縮をおこなう(=演じる)ことができる。「我々は収縮した水、大地、光そして空気からできている‥‥受容あるいは感覚的要素において、その逆もありえるのだが、どんな器官も、収縮・保持・期待の総和なのである」(73ページ)
 受動的な生成は、習慣によって事例化される。経験の重みを危急に変えることによって、現在のなかにある過去(あるいは未来への振る舞い)受肉化する。慣習は、「幼虫の自己」の群衆を創造するが、幼虫の自己は、欲望と満足を得た小さな自己のように機能する。フロイトの言説のなかでは、快楽原則に関連する興奮に関連する領域の事柄である。
 ドゥルーズは、受動的理論の彼自身の理解のためにヒュームとベルグソンを引用=言及する。

2.能動的生成(2. Active synthesis)

 時間の第2のレベルは、記憶の能動的な力によって組織され、それはより相互に離れた出来事の間の関係性を維持することによって時間の継続=通過(passage of time)の中に不連続性を持ち込んでいる。宿命=運命の議論は、どのようにして記憶が時間を変え、どのように時間が反復のより深い形式を形作る[=立法化 enactする]ということを明確にする。
 宿命=運命は決して現在のあいだのステップ・バイ・ステップ的な決定的関係からなるものではない。それ(=ステップ・バイ・ステップ的な決定的関係)は表象された時間の秩序にしたがってあるものが別のものに継起すると考えるものであるが、そのようなものではないのだ。そうではなく、宿命=運命は、局所化されない接続、遠隔地の諸行為、応答のシステム、共鳴と反響、客観的なチャンス、記号、信号、そして役割の間を示唆することであり、空間的位置と時間的継起を超越する(83ページ)。
 習慣の受動的な生成に関連づけると、記憶は仮想的で垂直的である。それは時間における隣接性よりも、イベントの深さと構造の中でのイベントを扱っているのである。受動的な生成が「私への」フィールドを生み出そうとするところでは、能動的な生成は「私自身」によって上演されるのである。フロイト主義者が記録したように、この生成はエロスのエネルギーが置き換わったものである。エロスは、満足への単純な刺激よりも力の探究であり問題化されるようになる。
 プルーストラカンは、この層(レイヤー)のための重要な著者たちである。

3.空虚な時間(3. Empty time)

 時間の第三の層(レイヤー)は、現在のなかに未だ存在しているが、しかしながら、単純な時間の反復からは自由になるような方法としてあるのではない。このレベルは、究極のイベントに言及し、あまりにも強力なので、どこにも存在するようになるのだ。それは偉大な出来事であり、ちょうどオイディプスハムレットによって試みられた殺人のようである。このレベルを立てることは、ひとりの演技者が彼女自身を目立たないようにし、かつ永遠の回帰の抽象的な領域に参入するのである。ミー(他者的自我)とアイ(自己的自我)は、「名前なき、家族なき、質なき、自我や私なき、人間」への実態をひらき「至高のイメージのまわりに落下するメンバにとりまかれた超人」のようになる(90ページ)。【ここは意味不明、すみません馬鹿で】
 空虚な時間はタナトス(=死の本能)と関連しており、このタナトスとは、すべての物質のなかで作動しており、個々の心的システムの特異性を廃棄するような性的なものが去勢されたエネルギーである。ドゥルーズは、タナトスが特異的な破壊衝動や主体における「死の本能」を生じさせる理由などないことを慎重に指摘している。ドゥルーズにとってタナトスは単純に中立であると考えている。
 ニーチェボルヘス、そしてジョイスは、第三の時間のためのドゥルーズの著者たちなのである。

III.思考すること(thinking)のイメージ(III. The Image of Thought)

 この章では、一般の人々の、そして哲学の言説に浸透している「思考することのイメージ」おける目的について考える。このイメージに従えば、思考すること(thinking)は自ずと真理の方向へと引きつけられる。思考(thought)は真理と錯誤の(2つの)カテゴリーに容易に分けることができる。思考のためのモデルは、教育制度から由来するが、この制度のなかで、教師は問題を出し、生徒は、どちらが真理でどちらが誤りであるかという解法を産出する。さまざまな諸能力があり、それらの個々の能力は理念的には何がもっとも適合的かという現実の特異的なドメインを把握する、主体のこのイメージはこれらのことを想定しているのである。
 哲学においては、このような考え方=概念化(conception)は、「誰もが知っている‥」つまりある基本的な理念についての真理という議論を叙述する(predicate)言説の中に帰結する。例えばデカルトは、誰しもがすくなくとも考えることができ、それゆえ存在するという理念について訴えた。ドゥルーズは次のように指摘する:このタイプの哲学は、主体の前提は維持しつつも、すべての客体の前提は排除しようと試みるのである。
 (アントナン)アルトーと共に、ドゥールズは次のように続ける:本当に考えること(real thinking)は、これまでにあったなかで、最も困難な挑戦なのだと。考えることは、愚かさに直面することが要求され、この愚かさとは、いかなる現実の諸問題にも取り組むことのない形のない人間の存在の状態のことである。真理への真実の道は、感覚の産出を通してあることを、人は発見するであろう:つまり、その客体=対象に関係する思考のために、織物が創造されるのである。感覚は思考を他者と関連づける膜(the membrane)なのである。
 さらに、学習=学ぶことは諸事実を記憶することではなく、現実に即して思考を調整することなのである。「結果として、『学ぶこと』はつねにその場でおこり、無意識を通しておこなわれるので、自然と心の間の深い複雑性の結びつきの中で確立する」
 ドゥルーズの思考に関するもうひとつのイメージは、差異に基づいているが、この差異は各人の諸能力と諸概念を横断するダイナミズムを創造する。この思考は根本的には活力に満ち、示唆するものである:もしそれが諸前提を生み出すのであれば、その発展にとって完全に二義的なものとなる。
 章の終わりで、ドゥルーズは思考のイメージについて彼が批判する9つの点に次のようにまとめる。
(1)[デカルトの]第一原理の前提、すなわち、普遍的で本質的なコギタチオ(思索者の善き意思と思考のよき性質)
(2)理念的の前提、あるいは共通感覚(能力の調和としての共通感覚と、この協調を保証する分布としてのよき感覚)。
(3)モデルの前提、あるいは再認の前提(想定上客体と同じものを自らに実践する能力を招来する再認、および、別の能力をもつ異なった客体を客体のひとつだとひとつの能力が混乱した時に、錯誤が引き続いておこること)。
(4)要素、あるいは表象の前提(差異が、それを補完する次元に従属する時に。補完する次元とは、同じものと、類似・類比・あるいは反対物のことである)
(5)否定物の前提、あるいは錯誤の前提(この前提の中では錯誤はすべてを表現し、思考における悪、しかしながら外的メカニズムの産物として見なされる)
(6)論理的機能、あるいは提案の前提(真理の場所に割り当てることがおこなわれ、感覚的存在は、もはや中立的な二重性あるいは提案の永遠の二重性の他の何ものでもなくなる)
(7)様相の、あるいは、解決の前提(諸問題が物質的に諸前提から追跡できる、より深層的には、それらの解決されうることによりい公的に定義される)
(8)結末、あるいは結果の前提、すなわち知識の前提(学ぶことが、知識に従属すること、そして文化が方法に従属すること)

IV. 差異の観念化する総合(Ideational Synthesis of Difference)

 この章は、差異にもとづく観念の概念を提案することを通して差異が思考に根ざすという議論を展開する。
 ドゥルーズは否定(-x)のための差異化=微分化(the differential)に関する彼の置換=代入という議論に戻る:その議論では、相互決定される発生的要素間での差異的関係のシステムとして、諸理念を考えることができる、というものである(Pp.173-174)。諸理念は複数的存在(multiplicities)である、すなわち、多数ということもなく、また単一ということもない、異なったドメインの中で実現することのできる抽象的な要素の間での組織のひとつの構成なのである。ひとつの事例が諸組織から示される。ひとつのスキーマは、さまざまな形になりうるが、しかしながらコンポーネントの間の関係で定義できるが、そのスキーマによると、ひとつの組織はそれ自体で活性化する。胚胎するマスのなかで小さな弁別とともに始まる対称性のなかで次第に炸裂することを通して、この複雑性は達成される。
 「仮想性=ヴァーチャル」という用語がこのタイプの実体(entity)――それはリアルなのだが――を叙述するのに使われてきた。ヴァーチャリティの概念(notion)はある方途について強調するが、その方途の中では、それらの諸関係の審級―アクチュアリゼーション=現実化と呼ばれる―に先立って諸関係のセットというものがある。

V. 知覚されることの非対称的総合(Asymmetrical Synthesis of the Sensible)

 この章は差異の作用=働き(the play)についての議論が続き、どのようにして感覚がそこから生じるのかについて説明している。それをおこなうために、差異=微分に関するおびただしい科学的かつ数学的概念と関連づけられる。
 強度と外延:質量から独立した/従属した
 ひとつの大きなテーマは強度(=質量から独立した)であり、それと反対なのは――ドゥルーズにとって、これが先立つのだが――外延(=質量に従属した)である。外延性は、ある現象の諸次元を活性化するものにみられる:その高さと、その特異的なコンポーネントによる。科学では、ひとつの客体の強度の特性は、ちょうど濃度と特異的な熱のように、質量に関係のないものとなる。それとは対照的に、外延的特性は――客体は半分に分けることができる――分解の主体になることができるに対して、強度の諸性質は単純に還元できないし、あるいは、その完全に剥き出しに変形することなしに、分けることはできない。
 強度の空間は、スパティウム(spatium)と呼ばれるが、それはヴァーチャルで、その含意は、外延の空間のおこるべき生産を支配することである。このスパティウムは観念の宇宙的類推である:活性化される抽象的な関係のメカニズムは、同様である。
 強度は、差異が相互作用し、世界を形作るという基本的プロセスを支配する。「明らかな質と、他と峻別できる強度の中で、それ自体で具体化するイデアのあいだの『ぼんやりした』差異化する関係を決定し、基本的な空間的=時間的ダイナミズムの中で直接的に表現されるものこそが、強度なのである」(245ページ)

思考の様相(Modes of Thought)

 ドゥルーズは、善き感覚、共通感覚を攻撃する。よき感覚は世界を統計的にみて、最大のアウトカムを生産するために最適化することを試みる。よき感覚はおよそ合理主義的であるが、しかしながら運命や差異を肯定することはしない、そして、差異の力を増強させるよりも減弱させることに関心がある。それは期待した価値の平均の価値と現在をみる経済的な見方であり、未来は、特殊なディスカウントのレートに基づき変化させられている。
 共通感覚は、客体のカテゴリーを認知し、反応する能力をもつことである。共通感覚は、よい感覚からなり、関数にしたがう:つまり客体の「認知」は、(差異の他の可能性に沿いながら)危険の帳消しと「予言」を可能にする。
 共通感覚もよき感覚に対して、ドゥルーズは逆説に反対する。逆説は哲学と真の思考に対して刺激するものとして作用するが、その理由は逆説は、思考に対してその限界と対立するように強いるからである(このアイディアは「論理の思考」の中でより詳しく説明される)。

個的化(Individuation)

 物質の宇宙論的流れから出た「諸個人」の癒合はゆっくりとして不完全なプロセスである。「個的化は、稼働性をもち、奇妙なことに柔軟で、思いがけず、そして外縁と周辺を取り込むものである;そのすべての理由は、個的化に貢献する[諸]強度はお互いに交流し、他の強度たちを包摂し、そして逆に包摂されもする」(254ページ)。つまり、個的化した後も、世界は受動的な背景になるわけではない、あるいは、相互に関係する自律的な諸アクターがその舞台に登場する。個人=個体はそれをすべて構成する基礎にある諸力に結びつき、それらの諸力は、個々の承認なしに相互作用し、展開することができる。
 胚(=種子)は個的化のドラマとして演ずる。この過程では、胚はそれ自体でダイナミクス=力学に従属する、この力学は個々の諸器官を完全に引き裂くものであろう。個的化の力は、最後の私あるいはそれ自身の発展の中に位置づけられるのではではない、しかしながら、深い力学の可能性においては、その物質性による付加的なパワー(権力)を得た存在のなかで[個的化は]具現化する。個的化は、(大文字の)他者の顔に直面するようなドラマを記述することを可能にする。[エマニュエル・]レヴィナス流の単一の形態とは区分されたかたちで、この状況(=ドラマの場面)はドゥルーズにとって重要であるが、その理由は、個的な不可知をともなった可能性と開放性を表象しているからだ。

社会的および政治的コメンタリー(Social and Political Commentary)

 差異と反復は、明示的に社会政治的発言をおこなうという点で、純粋哲学の領域から出発した稀な機会を実現している。それらは一般的に左翼的な動きをもち、一連の次のような主張にあらわれる。
 「私達は次のように要求する;「必要な破壊」をアピールする2つの方法がある。ひとつは詩人によるもので、詩人は創造的な力の名において発話する。永遠に回帰する特徴をもつ永続革命の状態において(大文字の)差異を承認するためにすべての秩序と表象=代表を転覆する能力をもつ。もうひとつは、政治家によるものであり、確立した歴史的秩序を維持し延長するための『差異化する』ことを拒絶することに関わる」(53ページ)
 「真の革命は祝祭の雰囲気をもつ。矛盾はプロレタリアートの武器ではなく、矛盾はブルジョアジーが防衛し、それ自体を維持するマナー(方法)なのであり、それを維持する陰の後ろには、何が問題なのかを決定する、その要求が維持されている」(268ページ)
 「我々の日常生活を、標準化し、ステレオタイプ化し、消費の諸対象を加速して生産する主体となることを明らかになればなるほど、反復の別の諸レベルの間に同時に生起するほとんど差異のないものから抽出するために、よりさらに技巧=アートを注入しなければならない。これらの抽出のためは、いささか、2つの極端なものを共鳴させるためであるが――この2つとは、言わば、慣習的な一連の消費および、制度的な一連の破壊と死というものなのである」(293ページ)