土地の所有権保証は古典的なリベラルデモクラシーの根幹で

土地の所有権保証は古典的なリベラルデモクラシーの根幹で、農民や先住民にこの権利付与が「まだ」ゆきとどいていないのが問題。さらに、中央政府は基本的な登記や土地問題の調整能力という「統治能力」を喪失し、ほとんどできなくなった状態。さらに、大土地地権者はパラミリタリーや、国家の暴力装置たる「市民警察」――多くはOECD諸国の協力で民主化の一環として導入された――を使って「不法占拠者」(=耕作者)を排除する。こういう状況は土地問題という名称で語られる。しかし政府担当者や学者は昔とは全然違ったパラダイムで、この問題系を観ていると思うけど。
私が土地問題という用語法を古く時代遅れと思うのは、はてさてそれは問題は問題だが、その中身を分析する視点は新しくなって土地「問題」に収斂されるのではなく、むしろレジーム「問題」の中で、土地が包摂されて議論されるようになったということ。たぶん、貴兄の言う、農民(=階級概念に似せた経済主体)や土地(=前資本主義生産様式における資本の等価物)という一種の還元主義のように見える用語法も、史的唯物論にみられる極端な還元主義(=下部構造決定論)に見えたのでしょう。いうまでもなく新古典派マルクス主義も概念装置は共有して、議論――例えば搾取や貨幣についての解釈――や論証の方法において異なっているだけ……。
つまり、農民や土地が、自足的な問題系のなかにきちんと収まりきらなくなったということでしょう。グローバリゼーションのおかげで、民主的な法律家や人権政治家はパラミリタリーから脅迫を受けると、さっさと米国かほかの第三国――ほとんど米国化したメヒコ――に逃げますからね。こういう連中は、真の意味での自己決定権とそれを行使する経済的基盤の保証された「市民」かもしれません。

土地を合法的に利用するためには、登記制度が確立して、土地利用の制度に関する法的な規制と自由利用のバランスがきちんととれて、地権者の権利が保障されていないとなりません。土地の利用に関して議論ができる国とは、所有問題には一応かたがついた空間なのでしょう。でも、それはあくまでも社会契約上の制度にすぎないから、いつでも腐る可能性がある。法的虚構は、エントロピー増大の法則で放っておけばバラバラになるので、維持管理しなければならない。私が最初のパラグラフで言ったのは、そういうバラバラのなり方には、構築過程と同様の経路依存性と、グローバルな文脈におけるさまざまな攪乱要因――商品作物、もっとも強烈なものとしては芥子やコカの栽培など――によってできているということでしょうかね。