ビニルでできた屍体フェチ

BODY―驚異の人体探検XXさんへ(「人体の不思議展」に疑問をもつ会) 
です。
非常に興味深い投稿でした。
この批判活動を通して、いったいどのようなことを問題化されようとしているのか、ホームページを見る限り、十分に理解できませんでした(個々の問題が複数で相互に絡んでいるからかもしれない)。私が考える論点のいくつかは以下のようなものです。コメントでも結構ですので、それぞれに考え方をご教示願えれば幸いです。
引用はhttp://sky.geocities.jp/jbpsg355/mondai.htmlからです。

1、本当にインフォームド・コンセントを経た献体でしょうか?主催者は、献体は生前の意思にもとづくものとうたっていますが、果たして上記の扱いを受けることまで納得していたのでしょうか?

インフォームド・コンセントされた献体ならば、このような展示は容認されうるのでしょうか。それとも3.の所説に依ると、展示が容認されうるのは「ICがあって、かつ屍体に対して『人間の尊厳』が守られたもの」であればOKと考える。そうなると、ICの取られていない、他の医学標本も展示が容認去れ得ないものになるが、そのように考えてもよいのか。

2、標本は、すべて国内法の適用を受けない中国人のものです。仮に日本の国民が医学教育用に献体の意思を示しても、このような標本化と展示をなされることは、、現行の「死体解剖保存法」と「医学及び歯学の教育のための献体に関する法律」との制約によって実質的に不可能です。標本がすべて中国人であることの法的あいまいさと人種差別の問題を深く考えるべきです。

中国人の身体を日本国民に晒すということが「人種差別」になるのか。それとも、このような身体処遇のやり方が、日本人が一般的にもっていると想定される中国人差別と類似の社会現象であるから、このようなことへの配慮が人種差別の問題解決に向けた練習問題になると考えるのか。あるいは、「このような標本化と展示」が、法的に考えても適法ではなく(=つまり違法性につながる?)、また人権保護の点においても好ましくない。しかし、この場合、適法でもないことにより、不利益の被害者は誰なのか?

3,すべての人は、死後遺体となっても人間としての尊厳が守られなければなりません。遺体には最大限の丁重な扱いをするのは当然です。しかし、この展示が興味本位の見世物になっていることは、倫理的に大きな問題です。

遺体の処理に関する文化的・歴史的相対性についてどう考えるのか。「死後遺体となっても人間としての尊厳を守るべき」という考え方は普遍的でもないし、「尊厳を守る方法」においても歴史的社会的にさまざまなやり方がある(ということは「尊厳を傷つける方法」においても、さまざまなやり方があり、ある社会において「最高の軽蔑」が別の社会において「最上のもてなし」になることすらある)。これは身体の畸形や変性に関しても類似のことが言える。また「興味本位の見せ物」は、この場合において問題があるのか、あるいは一般的に「興味本位の見せ物」は悪いことなのか?――倫理的に「興味本位の見せ物」を保証する方法というものは、あり得ないのか?

4,「人体の不思議展」は、一般市民から高額の入場料を徴収しており、いわば、死体が金儲けの道具になっているのです。このような人体の利用に社会は歯止めをかける必要があります。キーホルダーなどのグッズを会場で販売するなど営利目的は歴然としています。

低額の入場料ではあればよいのか。屍体の全体あるいは一部の展示が営利に繋がることが問題なのか?展示が公共性をもっていないことが問題なのか?――「社会が歯止めを掛ける」ような基本的合意事項について提示するか、ないしはここで提案しないと、何をどこまで歯止めをかけるのかが、不明瞭なままである。

5、株式会社日本アナトミー研究所が、中国の死体加工場より死体を輸入していますが、生命倫理はおろかビジネス倫理にももとる営業にほかなりません。

当該の会社に関する違法性や社会通念としての企業が守るべき道徳的問題の具体的な指摘がないと、会社に対する営業妨害になりませんか。もちろん、なんとなく怪しそうだけど、それだけでは告発する正当性は確保できないと思いますが・・・

6,主催者に名を連ねる新聞社・テレビなどは、この展示の広告を新聞紙上や電波で流して集客にこれつとめています。マスコミの責任は重大です。人権無視の展示に荷担するのではなく、この問題の告発こそジャーナリズムの役割ではないでしょうか。

マスコミも企業と一連託生で、批判的報道はないのかという指摘ですね。これはごもっともという感じです。

7、日本医学会・日本医師会を初めとする医学界の責任は大きいと思われます。倫理上問題の大きい展示に医学者・医師がお墨付きを与えることは、いわば自分の首を自分で絞める結果にります。医療への信頼を得られるのは、真の患者本意の医療であるはずです。インフォームド・コンセントがあったかどうか疑わしい標本の展示を後援することは、医学研究に不可欠な被験者や献体を申し出ようと思っている人の信頼を得ることには明らかにマイナスです。

医師会も企業と一連託生で、批判的良識的観点はないのかという指摘ですね。これはごもっともという感じです。(自己韜晦になりますが、昔、京都で開催された時にこの展示を初めてみましたが、医史学会の京都支部の資料展示もありました)

8、後援する自治体も公共の観点から責任があります。後援名義許可は、宗教性・政治性がないなどの機械的な基準の適用ではなく、倫理的にも深く考慮するべきです。

自治体も企業と一連託生で、批判的良識的観点はないのかという指摘ですね。これはごもっともという感じです。

9、教育界の安易な奨励にも大きな問題があります。教育委員会が後援しているため、小中高の学校の生徒学生には、教育的な展示と思いこまれてしまいます。しかし、実は倫理的にも学術的にも、高度なレベルの標本ではありません。むしろ、これから、人体の有機性・複雑性を学ぼうとする若い人々には有害でしかありません。

う〜なんか、こうなるとかつての魔女狩り有害図書追放のファナティズムを感じます。特に「これから、人体の有機性・複雑性を学ぼうとする若い人々には有害でしかありません」という文言ですね。むしろ、科学の名を隠れ蓑にした見せ物、ポルノ小屋なのだから、自己決定権をもった大人にのみ解放し、善悪の判断力のない――まあこれも良識ある大人の信じる虚構なのだが――子供には禁止しろ、
という助言のほうがよいのでは?

 また、解剖実習のない看護学校看護学部その他のコメディカルの学生に見学を薦める学校・教官が少なくないようですが、むしろ精巧な模型を示したり、最寄りの医科大学や医学部にある標本展示館への見学を薦めるほうが学生にとって有益でしょう。

医学教育という観点からすると「最寄りの医科大学や医学部にある標本展示館への見学」に行かず、前項のような「邪悪な悪場所」に殺到する彼ら(=消費者)の行動を「最寄りの医科大学や医学部にある標本展示館」の展示の魅力のなさという反省材料にして、そういう後者の実施主体に「お前らしっかりせんかい」と喝を入れるのはいかがでしょうか?

10、多くの主催・後援団体が説明責任を果たしていません。「人体の不思議展」に疑問をもつ会は、公開質問状を仙台展のすべての主催者・後援者19機関に送付しましたが、返信用封筒を添付したにもかかわらず、10機関からしか回答がありませんでした。日本医学会は一旦後援を取り下げると回答したにもかかわらず、現在も後援を続けています。

この指摘は極めて重要。医師会の豹変に対して、どのようなプロセスがあったかを究明することは重要ですね。

                    1. +

以上、ご指摘されている問題点が多岐にわたるのですが、私が関心があるのは、このような、ある人から見て「邪悪だと思われる社会活動」が、どの程度、容認されて、どの程度なら許されるのか。また、今日、倫理や人権という御旗を立ててクレームをつけるという活動が、どれほど規範の逸脱者に対して(自己の誤りに気付き本心から気持ちと態度を改めるという意味での)ボディーブローとして効いているのか――臓器売買のように逆にアンダーグランド化して見えないところで常態化する危険性はないのか。みなさまの社会問題への介入への勇気に敬意を表すとともに、自己の欲望を充足させるというあらゆる社会運動がもつ本末転倒――やめさせるという目標が自己目的化して、抗議活動の主張の根拠となるような論理的枠組みへの検証が疎かになる――の帰結にならないよう、心より祈念しております。
がんばってください。

追伸:昔トイザらスというおもちゃ屋で買った中国製の人体模型([純]学問的ではない解剖フェチなんです)を横に置きながら……