石主義と球信仰、さまざまな資本をめぐる闘争の場

拝復 おはようございます。
 球信仰への憧れはあります。暇な時にヤフーオークションをみてますので。しかしながら、私は本邦における球信仰は石のアンプが高機能高水準であったことの社会的抵抗論から説明できると思います。ブルデュ風に言うならば、学歴資本と経済資本そしてオーディオスペース資本の3つの資本が具備されていないと、この道に進むことはできません。過日、学会で発表された友人が、この球信仰の詳しい分析をやられておられましたが、球信仰の信者でもある彼においてすら、また種々のオーディオ本からの帰結は明らかで、コストパフォーマンスは言うまでもなく音質においても球よりも石のほうが優れていることは揺るぎない事実(=理性的判断)です。要するに蒸気機関車電気機関車の勝負ですよ。さて、件の友人は、アンプはラクスマン、カートリッジはオルトフォン、そしてスピーカーはタンノイ、さらにレコードコレクションは、バークレーでも有名なコレクター、おまけにジャズドラマーでもありますが、その音はさめざめとするような特段の良い音とは言えませんでした(俗にいう味のある音ではありましたが)。彼のうちでジャズ談義しながら夕食を招待されたことが何度かありますが、彼が作る手料理のほうがサウンド(健全)な味でございました。お後は敬具でした。
追伸:お目汚しに拙論をご覧下さい。
◎ドキュメントにおける記憶(声)とジャズレコードの記録(刻印)について
http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/060606omen.html