よい授業とは? アウトソースの考え方

非常勤の講演者を授業で招聘する際の問題について一般論でお話しします。お役にたつかと思いまして貧弱ですが私の経験をお話します。
 授業の中で学外の関係者を呼んでお話いただくのには2パターンあります。
(1)非常勤講師、
(2)講義内講師、です。
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(1)非常勤講師
 前者は、交通費・日当が負担されますし、またシラバスにお名前が載りますし、講義に足る人物であるのかは(形式上とはいえ)教授会で審査されます。また行き帰りの災害に関しても掛け捨ての保険などがつけられています。つまり、講師として大学はきちんとした処遇が行われていることです。大学の授業としてはこれが理想ですが、管理を誤ると変なこともおこります。信じられない話ですが、ご自身は「実践学」を僭称される教授が、長年同じ学外講師を呼ぶことがその教授の既得権益になり「この非常勤講師による講義はK大の名物になったのだから(経費節減のための講師旅費)来年呼ばないのは大学の損失になる」とごねて続けさせた例があります。予算が限られているので、非常勤をお世話するには、平等な競争原則かローテーションで回し、つねに新鮮な学外非常勤をお願いするのが健全な運営になります(本当にK大に必要なのだったらなぜ常勤雇用にしないのかという根本的な議論を結果的に回避しているので)。
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(2)講義内講師
 では後者の講義内講師はどうでしょうか?、これは、別の目的で大学に来てもらった人にお願いして(受講生のためになると、よかれと考え)無償で講義をお願いするものです。非正規なので謝金は出ませんし(先生が夕食を招待することぐらいはある)、公的な記録には残らない講演になります。この場合の授業の内容保証の責任は、あくまでも本来の授業担当者にあります。だからいくら「ナマの声」が聴けるといっても、フォローの授業を前後に入れるなどサポートが必要です。ということは、授業テクニックとしては高度なものが授業の実施者には要求されます。しかしながら、今は(1)の方法で講師を呼びにくいこともあり、つい別の財源(研究費など)で呼んだ時には「もったいない」(マータイさん流に?)と思って、授業などでついついお願いしてしまうわけです。
 よい講演をしてもらえるか、そうでないかーーつまりこの程度の話なら大学の先生でもできるぞっと結果的に後悔するような講演ーーは、やってもらわないと分からない。当事者の話を聞けばよい(つまりアリバイづくりのための講義)というレベルで終わらせたいのなら別ですが、こういう社会経験の積み重ねは、受講者にも講演者にも失礼になるでしょう(つまり非生産的経験でたんなる時間を浪費してしまう)。
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 本センターは、これまでにない斬新な授業を期待されているので、どうしても内容豊富なシラバスと内容をやろうとがんばってしまいます。しかし、授業は今年が初年度でなにごとも初体験のことばかりです。しっかりと講義と学生の反応をとりながらーー例えばH先生の映像記録は重要な基礎資料を用意してくれていますーー、どんな内容が話されたのか、学生のレスはどうだっか、授業の改善点はどういうところにあるのか、などはこまめに検討して授業予定者だけでまずは授業をやってみることが重要だということです。また、同時に、同僚が転出などで抜けた時に、その人の知識やキャラの資質に依存することなしに、授業手法やマニュアル(教科書や文献を含む)で、その人的資源の穴埋めが容易にできるのかということも重要な要素です。大学の授業は名人芸だけでなりたっているものではありませんので。学外講師というのは、その人の名人芸を単純にアウトソース(=外部依存)する形で使うと、その人がいなくなった時に、大きな損失を生みます。よい授業とは、容易にできない名人芸ではなく、訓練すれば誰にもできるものでなければなりません(あるいは、私のよい授業の定義とは「誰にもできる最善のもの」ということです)。
 以上、くだくだと書きましたが、言いたかったのは以上です。
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【標題】ぶふふふ、哲学って大変!
鷲田清一の本を読んでいたら永井均の傑作(もちろん、おちょくりたくなるような馬鹿)な文章である。(儂が読んであげるので)まあ耳を傾けてみよう。「子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体に覚え込ませてやることである」(永井均『これがニーチェだ』)。こういうのって、ニーチェ本人の生身の人間性ーーある意味であほなおっさんーーと、その主張の斬新性ーー時代的社会的限界を突破する見解ーーの二重性、ニーチェのみならず人間一般の二重性について思慮が働かないミゼラブルで薄っぺらい言挙げだ。『これがナガイだ』だったら許せるけどね。虎の威を借る狐と申しますか・・こちらが悲しくなりますね。さて永井の主張に戻ろう。学校で校長が「お前ら気持ちのいいことやれ、ドラッグOK,セックスOK、抑圧的な交番を焼き討ちにせよ、おれも血気盛んな学生の時に感じたが、気持ちいいっぞっ!」ってアジテーションすることを想像すれば、先の発言はアホな発言になってしまう。むしろ、私が理解しているニーチェ的には、そんなアジテーションをやっても、知らないうちに、そのような冒険心を適当に飼い慣らし、「野生的な啓蒙の物語」に変えてしまう、そんな読者の根性が奴隷なんだよ、ド・レ・イ!・・てな感じこそが「これがニーチェだっ!」と思うけどね。ニーチェみたいな扱いにくいものも飼い慣らして、分類して、値札つけて、哲学って大変なんだ。