その概念の使われ方を慎重に検討せよ

現場力研究会のみなさま
前回、次回の本の話が出ておりましたが、いろいろ候補がでておりましたが、それまでの中継ぎに『状況に埋め込まれた学習』(本文だけ)を1、2回やるのはどうでしょうか?また、『生き方の人類学』以降は、現場力の定義をめぐる話題提供と議論をする〈理論=議論編〉と〈読解・創造的解釈編〉を交互にやってゆくことで、そろそろ現場力について、具体的なイメージを与える作業を始めるのはどうでしょうか?
レイブとウェンガー『状況に埋め込まれた学習』をつなぎでやる理由は以下の通り。
実践コミュニティ(田辺は「共同体」という訳語を嫌ってそう訳していますが翻訳者の佐伯は「実践共同体」)を提唱したまず最初のオリジナル文献ですし、肝心のその章ならびに原著にあたり、この概念を解説してもらったムキムキさんですら、あいまいな明快な説明を与えられなかったわけですから、ここはぐっと原点に返って、実践コミュニティ(あるは実践共同体)って何?ーーということを、丁寧に議論し、また、我々のみのまわりのコミュティを、その概念で検証してゆくのはどうでしょうか?
以上が提案です。
◎現場力
http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/060518genba.html
私の心証では、実践コミュニティの概念すら、フーコーの権力概念やサイードオリエンタリズム概念同様、消費され適当に飼い慣らされてゆく(「対話」や「現場重視」は言うに及ばず)ような気がします。「聴く力」も含めて、消費・流通した後に陳腐化するケースが後を絶たないのはなぜでしょう?ーーそんなん古いといわれるように、中身や意義の検討がなされずに捨てられるからではないでしょうか。捨てられないための方法は2つあります。ひとつは(1)アホみたいに繰り返すーーこれは宗教的プロパガンダの方法、たのひとつは(2)用語法の洗練化による概念の汎用性の確立です。汎用性を獲得するためには、具体例を多角的に検討し、その概念の可能性と限界を見極めることです。可能性の検討からは分析の対象や応用の可能を模索できますし、限界を見極めることは、知識の汎用の限界を知り、正しく自分の学問範囲に関する矜持を守ることができるからです。大切なのは、キャッチーな用語の定義の権威者になったり監視役になるという愚かな大学人のモデルを、当研究所のスタッフは採用すべきではなく、なんでそんな用語や概念が、もてはやされる(=重要と考えられる)なったのかについて、その概念の使われ方を慎重に検討したほうが、面白いと思います。