部落(hamlet)異聞

部落(hamlet)なんて、いい響きの言葉なのだろう!だが、僕が部落という言葉を聞いたのは、中学校の時の同和教育だった。ブラク同音異義語の恐怖の言語なのだった――もちろん恐怖(アブジェクション)になったのはもっと後だが。その後は部落研(ブラクケン――部落解放研究会)だ。それからは、公務員だった父親からは、カイホウドウメイの糾弾のすざまじざを教えられ、カイドウのシンパからは、これが人民裁判の正しさなのだという神学を吹き込まれた。でも、部落=ハムレットの自然な言葉を聞いたのは、九州で学生を連れて山奥に入った時の、村人の自然な言葉としてのブラクだった。同和教育は、自然な響きをもつ――だからこそ価値判断をもつ「メクラ」「カタワ」「オシ」「ツンボ」「キチガイ」などなど、僕らの社会がいまだ和解できない単語が山のようにある――言葉を、恐怖の言語にした。もちろんカイドウの全面責任ではない。彼らは境界を引いて犠牲者のままでいることを戦略として採用したのだ。だが、その糾弾の、その尻馬に乗り、横から野次馬の煽動者のごとく、そうだそうだと無責任な声をあげたマスゴミ――可哀想だがアサヒ新聞にそれを代表(represent)してもらおう――が、相変わらずそのことに、何も、向き合っていないのはどうしてなのだ。俺達は、差別した側もされた側も、ジェームズ・ブラウンを必要としている。