artes serviunt vitae, sapientia imperat.

茂手木元蔵訳のセネカ道徳書簡集の後書きの最後の部分(平成4年ー彼が亡くなる6年前)に、昭和38年に三枝博音国鉄鶴見事故で亡くなる(亡くなった時の職は、横浜市立大学学長)のだが、彼が生前にartes serviunt vitae, sapientia imperat.のセネカの文言を木に彫っていたというエピソードがある。この訳を茂手木は、「技術は生活に奉仕し、英知は命令を発します」というふうに訳している。これを受けて木村尚三郎が、日経新聞に高度経済成長の「技術主人・人間家来」の生活が、(その反省を踏まえ)「人間主人・技術家来」に転換する証であると、茂手木じしんが紹介して、その考えを敷衍している。私はラテン語の十分な知識はないのだが、artes serviunt vitae, sapientia imperat.の訳は、ほんとうにそのように理解していいのだろうか? 私の疑問は serviunt は他動詞で人生=生活を目的語をとるのに、 imperat は自動詞的に訳しているが、このようにしていいのだろうか? これは、いわゆる対句をなしていて、この2つの動詞は共に vitae を目的語とするのではないだろうか? つまり、最後のヴィタエが省略されているのだ。artes serviunt vitae, sapientia imperat [vitae]. このように解釈すると「技芸(アート)は人生に奉仕し、英知(サピエンチア)は人生に命令をもたらす」ということになり、人間の道徳的命令の源が英知に根ざすことを示すことをセネカは表現したのではないのだろうか。実際のところ茂手木訳の85-32ではその前文で「英知は女主人であり女支配人である」と訳している。つまり、この知性主義は、(知性)ー(人間=生活)ー(技芸)という人間生活の階層性を表していることになる。したがって、ローマ人あるいはセネカ自身の人生観のコスモロジーとして機能していて、人間はなんで生きなければならないのか? そして生きる際に技芸(アート)や学智(サピエンチア)はどのような役割を果たしているのかについて[もちろんローカルなエートスとして]教えてくれることになる。つまり、茂手木や木村が主張する、人間様がご主人という矮小なヒューマニズムのことを言っているのではなく、まさに、生き方の中で人間が造り出したアートやサピエンチアがどのような関係をなしているのについて教えてくれる「人生の設計図」(?ーもしコスモロジーであれば地図のメタファーのほうがよりふさわしいし、実際のところ書簡集の85では航海における舵手の技術という表現をとおして、このことを説明しているからだ)の原則(どちらが上か下か[あるいは北か南か])のことを指しているのではなかろうか? 別に我々の諸先輩の慧眼を疑うわけではない。日本語の統語構造が主語や目的語を明示しないことが我々のメンタル・ハビットとしてあるために、翻訳されたことをそのままの字面から全く異なった風に解釈する畏れがあることを[私は]言いたかったのだ。