加奈陀と亜米利加の多文化主義

mitzubishi2005-11-30

 さて、卒論の件だが・・
<私はカナダの多文化主義についての卒論を書くのですがアメリカとの比較も少し入れながら書くとするとどういった構成がいいのでしょうか。>

カナダとアメリカは国家形成においてもまったく異なった経路をたどりました。その歴史的経緯もまた、それぞれ採用した多文化主義のタイプも違うのです。また米国では人種・民族のサラダボウルという考え方が多文化主義の前にあり、多文化主義を採用以降もそれに抵抗する考え方が長くあり、また民族的マイノリティからも多文化主義を否定する動きもありました。カナダの場合はイヌイット問題などの経験から多文化主義の採用は緩やかですが着実なものがあります。歴史的経緯が、それぞれの社会における多文化主義の受け入れ方の違いに出ているのかという観点から調べると、対比がよくわかります。単純な比較よりも、なぜそうなったのか?という観点から考えるのです。

<他にも教育の面や、政府の政策、移民のことなどどれを中心に書けばよいのか前からなかなか手がつかず追い詰められています。>

繰り返しますが、単純な比較よりも、なぜそうなったのか?という観点から考えるのです。

<結論的には行き過ぎた多文化主義によって国の統一が難しくなっていると書きたいのですが>。

国の統一に本当に意味があるのかな? 隣国の政府が日本をバッシングするために国民に思想教育して隣国の統一を説くように? あるいは日本の歴史修正主義者たちが、歪曲した歴史を通して日本国民としての統一を夢見るように(もちろん、あらゆる歴史記述は多かれ少なかれ歪んだもので常に修正される運命にはあります)? しかしそんな国の統一にはどんなメリットがありますかあ? 国の統一を強固にしたい欲望を持つことの論理的帰結としては国家全体主義への憧れがあります。「行き過ぎた多文化主義は危険」というのは、多文化主義は民族がバラバラになってみんなが暴力紛争になるという偏見から生まれているのであり、それは管理する側(=国家利害者)の弱虫的発想です。よい国の統一とは、人間の多様性が差別につながらず、違いを認めておたがいに共存状態にあるということです。よい国とは、このことを実現させてゆくための具体的な政策に勇気をもってすすむ人たちが多い社会のことです。多文化主義は、そのような社会を作るための一種の社会実験だといえるでしょう。実験ですからうまくいくこともいかないこともあります。これから改良する余地ありで、あなたの研究はそのことに貢献するはずです。
多文化主義の挑戦の理想やよい面にも光をあてましょう。