愚鈍や無駄飯喰いの効用

《愚鈍や無駄飯喰いの効用について》
 エリートの君たちは、自分たちのそれほどできない同僚を愚鈍や無駄飯喰いで月給泥棒だと見下してはいないだろうか?だとしたらそれは、彼らに対する敬意の度合いは少なすぎるというものだ。なぜならば、君たちがエリートになっている状態(status quo)は、ほかならぬ、その君たちが愚鈍と見下している多数派のお陰でもあるだからだ。
 こう考えてみよう。もし多数派のそいつらがいなくて、君と同程度か君よりもはるかに優秀な人が多数いれば、君はこれまで見下していた愚鈍という多数派のメンバーに「転落」してしまう。そんな新興エリートの連中に古参のかつてエリートの(未来の)君が見下されたたくはないだろう。御存知のように、組織は、少数の優秀なリーダーとそれをサポートしてくれる多数派のフォロアーが必要だ。後者が「フォロアーとしての優秀さ」を発揮すれば、その功績はリーダーもその功績をシェアすることができる。言い方を変えると、リーダが多少愚鈍でもフォロアーのおかげで、その上がりを吸えるのである。組織全体を考えると、リーダーがフォロアーを見下す認知的構造は,上手に機能しないことは自明である。さらに言い方を変えると、もし君が優秀なリーダーになりたいのなら、自己の能力を磨くという不断の努力の他に、フォロアーを見下すと悪習がもしあるならな、そこから脱却しないかぎり出世は望めないだろう。ウィン=ウィンとは、組織においてお互いに人間として認め合うことからはじまるというコンサルタントの言い方は的を得ていないだろう。冷酷だが、お互いに組織の歯車どうしだという謙虚な認識から、それは始まるのかもしれない。
 翻って大学を覧よ。リーディング大学院や現在構想中の卓越大学院という虚しい上げ底商品をやって骨太のエリートが育ったか?そだっていない。その理由は明白である。「フォロアーとしての優秀さ」を育てるようなマスプロ教育の改革が、両輪の片方なのに、その改革がおこなわれなかったはずだ。霞が関旧帝大出身大学関係者がそのプログラムをつくっているからだ。この30年間の大学院改革は、そのような即席エリート育成妄想家のせいで荒野になっている。上掲のような基本的なことが見えていないからだ。だから、卓越大学院も失敗するだろう。市井の人は常識で見抜いている。ハーバードやMITそのものが凄いのではなく、ハーバードやMITに集まる学生が凄いのだ。それはそのような名声によって回っているシステムにほかならない。本当の教育のパフォーマンスは、何も考えてこなかったナイーブな連中が、大学(院)というインキュベータの中でどれだけ成長するのか、そのことを学生に見せ、さまざまな刺激を与え、彼らを内から陶冶し、自ら考え、そして教員に思ったことを自由に言えるような度胸と見識を育んであげることなのだ。大学教員はそのような歯車であり、また大学と言う組織そのものが歯車にすぎない。