キャンパスの中のコンタクトゾーン

【キャンパスの中のコンタクトゾーンについて】
 成績の照会が文書により正式にあった。制度的枠組みの手続きなので、答案を引っ張り出し、他の答案と比べて、精査して、採点に変更なしと記載して、A4一枚にぎっしりその理由について回答する。ある意味で形式的裁判の論争(弁論)の形式をとるのだが、申し立ての内容は、どうしてこの点しかないのだ(自己評価とは違うもの)といレベル的には勘弁してほしいもの。しかし添付されている文書回答のルールというか原則の内規の文書を読めば、きちんと相手と対等に扱えとのお達し――教務の云い方もキツい。対等の存在の連中が、授業中に寝たり私語するのかね?。しかしながら、教務の人間も(連中は裁判官のように振る舞っているので状況を錯認している可能性も大だ)閲覧するだろうから、ソクラテスの弁明よりはまともで論理的な回答をしなくちゃならない。しかし、この論争は、パースペクティヴィズムの観点から見れば、こちらの言語と概念を理解していない先住民と自民族中心主義に凝り固まった宣教師との不毛な論争をしているようだ。宣教師が身につけている宝飾品をただたんに欲しがる――彼らには所有の概念が希薄なので我有はそれほどくどくないし関心がなければさっさと棄てるだろう要するに移り気だ――前者(先住民)と病的に宗教的表象への妄念に取り憑かれた宣教師――そのマナコは虚妄の永遠をみる死んだ眼だ――これらの間にコミュニケーションなど絶対にできるわけではない。俺は真理という虚妄の徒=宣教師だから、先住民(=学生)の単純だが無垢の心条を理解できない。この両者のすれちがいなどは、共に虚無の感覚の共有だからまあ実害はない。問題は、あの教務の〈学生のクレイムは正しく聞いて成績判定の透明性を確保しています〉という法の番人のような偽善的高慢が、両者の間をただブローカーしているにすぎないのに、温存されるということなのだ。