山極寿一氏に与する頌歌

《ゴリラ研究の山極寿一・新京都大学総長に与する頌歌》
 ルソーによると、オランウータンやゴリラは、動物ではなく「下等な人類」だという。こういう言挙げは、啓蒙主義の萌芽の時代における市井の人々に、まさか?!というおぞましい嫌悪的想像力を齎しただろう。毛むくじゃらのビーストが、人間の同類――マルクスのいう類的存在――というのは、やはり軽蔑の対象である非西洋の「現実」の人々への嫌悪感の前で「俺達はみな同胞」というぐらい危険な言説であったことは想像に難くない。
 そのルソーを人類学の祖と仰ぐレヴィ=ストロースという博覧強記以外には、これと言ってぱっとした取り柄のない創造力に欠けた学者は、その2世紀後に、ユネスコから依頼されて(西洋人を含めた世界の人々たる)俺達がどんなに「劣等異民族」を嫌悪しようとも、人間の間の種的差異などは存在しない、人類という同胞に嫌悪することは、自分のことを嫌悪するにことに他ならないと喝破した。つまり、人種差別主義は《論理的に破綻したもの》だと示した――その後、この主張は亡びず、我が国では、在得会や札幌の市議のように《知的廃疾者》――ま俺が使うこの罵声標識も似たような侮蔑語だが――の中に綿々と生き続けているだが。
 ここでのポイントは、人間とそれ以外の動物は峻別してもよいが、人間どうしの種的差異は認めちゃいかんというテーゼである。でも、アガンベンのビオス/ゾーエのような人工的な《生命の価値論的な二元論》の再導入は、人間内の種的差異のみならず、人間内の種的同一性すらも、人間中心主義の産物に他ならないのではないか、という論理に正当性を与えてしまった! 僕は、この発想は、啓蒙主義以降の、人類諸科学における第二の革新的展開(つまりリボリューション)と思っている。
 さて、僕は、今日、ある古書店の店頭で、川村俊蔵に献呈された編者職(伊谷純一郎)のある「チンパンジー記」をみつけた。パラパラと読んでみると、この本は、ある意味で、インフォーマントとの言語的コミュニケーションができない、火星人の人類学者達――その火星とはどうも京都大学猿研究集落らしいのだが――が書いた、1970年代における秀逸な「チンパンジー民族誌あるいは生態人類学誌」であると、僕は思ったのだった。こんな《初歩的で基本的》に今ごろになって気づかされたのは、僕自身が次のような偏見、すなわちチンパンジーは動物という他者であり、かつ人類ではない他者なのだという偏見をもっていたからなのだ。霊長類という、同胞の尺度基準から僕は、その《連続性》――ラインの境界分離能力ではなく境界上に跨がる連続性――にまったく気づいていなかったのだ。グドールさんのすばらしい民族誌同様、伊谷さん(僕は落っこちた院試の面接で一度しか会話を交わしていない)たちのスバラシイ民族誌にようやく気づいたというわけだ。
 そのような革命期においては、冒頭のルソーの主張は、「下等な」という価値判断から自由になり――だって俺達は文化相対主義の子供たちだから――「オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、そしてボノボたちは、俺達と同等な霊長類なのだ」と言い換える必要に迫られているのかもしれない。