アーレントは誰かを言うまえに、自分自身を知ろう

あるいは【物語の語り手を知ろうとする欲望について】
「長老」の徳永恂先生(85歳)の話はさすがに抜群に面白かった。とりわけ、人間の条件の vita activa はプラークシスの議論、晩年の「精神の生活」すなわち、テオレインという対比でセットで読まなくちゃならないという話。根源悪から悪の陳腐さという移行というものがもし彼女にあるとしたら残念だ、現代社会において陳腐なアイヒマン(=ダス・マンとしての)ですら根源悪に加担することすらあるのだから、アーレントは悪の二つの側面をもっと探究すべきだった。アーレントを思想家としてよりも、すぐれた伝記作家(人の物語を紡ぐ人)としてとらえ治す(読み直す)べき――人間の思考と実践の問題を考え抜いた人なんだから――、そう考えると「エルサレムアイヒマン」も(シオニストを逆撫でした)スキャンダルな論争の元凶ではなく(ナチスドイツの)「伝記」なのではないか?とおっしゃっている点が印象に残った。奇しくも、出かける直前にみたベンヤミンのstoryteller, illumination 所収の中に「どんな物語でも、ストーリーテラーは彼の読者に対して隠れた存在である」という指摘があった。アーレントの思想の森のような諸著作も――彼女のアーカイブワークは半端じゃない!――本当は彼女自身の姿が隠れてみえないようなものであり、だからこそ、ユダヤ人知識人としての彼女とは誰だったのかという議論をやりはじめた瞬間に、群盲象を撫でる議論に終始する。今日の講演に来たギャラリーの人たちの質問の多くも、自分の意見を開陳しようとした、物知りばかりで、自分が何者であるかを知ろうとせずに、アーレントが何者であるのかを知ろうとしている人たちだったかもしれない。