神学としての社会学

【神学としての社会学
 ここでは「社会学は社会秩序はいかにして可能かを考える」ということの虚妄について考えます(承前)。
 この種の議論のサイテーなところは、なんやかやいいながら「社会秩序の安定」を前提にするから「可能性」や「可能か?」という問題が「解明」できると――最初から解明できなれば学問やる必要ないですから――知らないうちに、この学問の領域を決定誘導しているところにあります。僕がホッブスやルソーに敬意を払い、このことに慎重でなければならないというのは以下のような理由によります。
 社会思想の創設者のホッブスやルソーは、[ホッブスでは]デフォルトでは秩序などないからその(=社会なるもの)内部から秩序を作らねばならないとしたり、[ルソーでは]原初にあった平和的秩序は人間の文化文明により腐ってしまう(=不平等社会の実現)から、その理想を取り戻すために「秩序」を約束(=契約)により再構成ないしは是正すべきだと唱えたのです。コントの頭の中にあったのは、このような先人の遺産を受け継ぎながら客観化を可能にする観察(=思弁と経験の統一)の対象を「社会なるもの」の中に見ようとしたことです。古今東西社会学の名著と呼ばれているものには、コント社会学の構想の中にあった「思弁と経験の統一」がさまざまな形で具現化されていると思います。だから謂いかたを変えると、社会学とは《「社会なるもの」について書かれた神学》なのです。じゃあ神学としての社会学が、批判することのできない《神》とはなんでしょうか?それは社会(society)ないしは「社会なるもの(the social)」ではありません――先のクソバカな議論は社会的秩序が神だと示唆しているのです。社会学者の神様は《観察》です。私は先に「観察は、思弁と経験の統一」と言いました。社会学者が崇拝する《観察》という神様は、思弁と経験が統一した形の中にあるのです。だから先のクソバカは統一した像を「社会的秩序」の中にみているのです。あらゆる神学の中にある統一したテーゼは、神の存在を否定できないことです(それをなんとか克服しようと到達した議論は「否定の否定は肯定と判断せざるを得ない」というような苦し紛れの詭弁です)。
 僕にとって、コント流の社会学、実証科学としての社会学的精神の破綻をきちんと論証(ないしは論駁)したと思える人は、エチエンヌ・ジルソン(The unity of philosophical experience, 1937)でした。ジルソンは、中世哲学(ほとんど中世神学の同義語)の碩学です。啓蒙主義の伝統の中にどっぷり浸かったコントが、《観察》の中に神を見出したのは皮肉なことですが、それを見破ったのが、神学研究の(当時の)第一人者の1人であるということは、この学問(=神学)がもつ哲学的議論の伝統が侮り難いというか、今日でも実は規範ともいえるほどの洗練さを兼ね備えたものである可能性をいまだにもつことを示しています。社会や「文化」――後者もトリッキーな用語です――を経験的手法をもって「解明」するという社会学者や文化人類学者は、自分たちの学問実践の中に潜む《神》なるものの虚実を考えてみることも、時には必要になるのではないでしょうか。